名前で呼んで 願いはそれだけ。 …まだまだあるけど、今のところは。 ロイは、夕暮れを疾うに過ぎた時分の残業の中、思った。 your nameの突然の要求や不可思議な言動は、いつもの事で慣れてはいるが、今日のは酷い、と。手に持っていた書類を机に置き、目の前で背筋を伸ばし切って立つ部下を見た。その礼儀正しい姿勢とは裏腹に、表情はふてぶてしい。 ロイが黙っていると、your nameはもう一度、同じ言葉を言う。 「名前で呼んで下さい。」 「どうしたんだい、少尉」 ロイが冷静に事情を聞くと、your nameは更に冷静に答えた。 何でも昼休みに、ハボックに余計な事を吹き込まれたようだ。ロイにあからさまな好意を寄せるyour nameが、ハボックに何かロイを振り向かせる良い案は無いか訊いた。その答えがこれらしい。 名前で呼び合って、仲を深めるんスよ。 ハボックのお節介に、呆れて物も言えないロイは、ただ溜め息をつくしかなかった。そこでハッとする。 「呼び合って、だと…?」 「はい。私も呼び捨てにさせて頂きます。」 当たり前の事のように胸を張るyour nameに、ロイは何も言い返せず、先程よりも深い溜め息をついた。 相変わらず背筋を真っ直ぐ伸ばして、ロイを見下ろすyour name。部下にはまるで見えないが、勘違いしてはいけない。れっきとしたロイ・マスタング大佐の部下である。 再び、自分の名前を呼べ、と催促しようと口を開きかけた彼女をロイの視線が制した。 そんなに呼び名が大事だろうか。それ以前に、彼女がここまで自分を好く理由が分からない。 「何故、私なんだい?」 思い切って尋ねた。それと同時に両腕で頬杖を突いて、手を組み合わせる。ロイは視線を、彼女ではないどこかに合わせた。 your nameは一瞬、何とも言えない表情を見せたが、直ぐにふてぶてしさを取り戻す。 「貴方が私を好きだからです」 はっきりと彼女はそう言った。何の迷いも見せずに、ただ淡々と。 この発言に、ロイは何の反応も見せなかった。驚きの余り、固まっただけかとも思われたが、本当に何の反応もしなかったのだ。組んだ手もそのまま。ある一点を見詰める視線も、そのままにして。 「名前で呼んで下さい、大佐」 本日三度目の、変わらない要求を口にするyour name。ロイが彼女を見上げた。表情はこれまでに無いくらい優しげだ。 いつから気付いていたんだ、と上司が部下に、少々遅れた質問をする。それに部下は、悪戯な笑みを浮かべ、最初からです、と答えた。 ロイが盛大に、肺の中の空気を全てを吐き出す。声を発しないyour nameの顔には、ふてぶてしさに、更にふてぶてしさを上乗せしたような表情が浮かんでいる。 「それで、名前は」 再び黙り込んだロイを、先程までとは違った温度の瞳で見詰め、問う。暫しの沈黙が流れた。二人が両思いだと分かった今、ロイは躊躇無くyour nameの名前を呼ぶだろう。 そう思われたのだが、その後ロイは何事も無かったかのように書類を処理し始めた。いつものように、ただ眺めている訳では無く、本当に処理し始めたのだ。 これには流石の彼女も、驚いた表情を浮かべる。理解出来ずに、姿勢を前に傾けてロイを覗き込む。彼は真剣そのもので、声を掛けるのも躊躇われた。 このままでは埒が明かないので、your nameがロイの名前を呼ぼうと、ロの本当に最初の音を発した所で先を越された。 唐突に書類から顔を上げたロイは、彼女の顔を見据え、 「少尉、今日は一緒に帰ろうか」 毅然とした態度で言った。何としても名前を呼ばないらしい。当て付けがましく少尉、と呼ぶあたり、彼女を諦めさせようとする意思が強く感じられる。 だが少尉は、呼び名に一瞬眉をしかめたくらいで、それに続いた誘いにただ喜んだ。 喜んだ瞬間に、当初の願いも忘れて。上司の底意地の悪い笑みに、気付く筈も到底無く。 こうしてハボック、そしてyour nameの、名前を呼ばせる、という野望は潰えた。 だがその帰り道に、ロイが彼女を驚かせようとあからさまに名前を呼んだ。それに当の本人は、 「何ですか?」 と不思議そうに首を傾げるだけだった。 結局、誰の願いも十分に叶えられなかったが、幸せそうな少尉殿に満足するロイとハボックだった。 (意外にも初ロイ夢…) (← |