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メイズの出口 





ただ過ぎる時間を、ソファの上で有効に過ごしていた時だった。彼については、有効だったかどうかは不明なのだが。



メイズの出口



「ねえ、your nameは人間なの?」

本を読む私の横で、ただ怠けるだけだった少年が声を発した。実に数時間ぶりに聞いた、彼の声だと思う。
その意味の分からない言葉の集合体は、ただ空気を振るわせるだけかと思えば、意外にも質問として形を成した。
私が人間かどうか。そんな事を聞いて、一体どうしようと言うのか、このフラスコは。
本を持ったまま、何本も皺を刻んだ眉間を、眼鏡越しにエンヴィーに見せ付ける。

「今フラスコって言ったね?」

何故か心を読まれている事に、当然のことながら困惑する。エンヴィーはそんな私を見て、憎らしい笑顔を浮かべた。
その笑顔を崩さぬまま、不意に彼は、私に向けて腕を伸ばす。
白く、細い腕。人間とは思えない様な美しさに、一瞬の出来事だとしても、目を奪われてしまう。
人間とは思えない様な。無理も無い。彼は人間の形をした、だが決して、人間では無いモノなのだから。
その腕は、私の眼前に迫ってくる。呆気に取られて固まると、突如視界がぼやけた。驚いて数回瞬きをすると、眼球が眼鏡の無い映像に慣れたようで、徐々にピントが合ってくる。
エンヴィーの手には眼鏡が摘ままれている。どうやら、眼鏡は彼に取られたようだ。本を読むには少し悪い私の目には、諦めの色が浮かぶ。

「私は人間ですけど、それが何か?」

本を閉じ、適当に置く。
こうなったらエンヴィーは、私が答えるまで引き下がらないだろう。しょうがない。読書は一時中断だ。
エンヴィーが眼鏡を掛けて、顔をしかめる。度が合わなかったのか、耐えきれず眼鏡を外した。擦った為に、少々充血した目が宙を泳ぐ。

「…僕さぁ、嫌いなんだよねぇ人間。…いや、」

嫌いなんて物じゃない、大嫌いなんだ。そう加えて、何故か切な気に顔を歪ませるエンヴィー。
彼が眼鏡を差し出したので、黙って受け取る。
エンヴィーの言葉は、まるで遠回しに私を嫌いだと言っているようで、不愉快だ。
そう思った私は、へぇ、とだけ言って、ほったらかしにされた本に手を伸ばした。そんな私の手元を彼がぼんやりと見詰める。
本なんか読まずに話を聞け。
そんな声が聞こえてきそうで、居心地の悪くなった私は本から手を離し、立ち上がる。床に手を突いて立ち上がった為、出遅れた腕がエンヴィーに捕まれた。
驚いて振り向くと、彼が無に近い表情で私を見詰めている。
今にも、私を否定する言葉がエンヴィーから降ってきそうで、恐ろしくて目を逸らす。人間嫌いの彼が、人間である私を嫌うのは当然なのにも関わらず、それを恐れる自分。そんな自分が解らなくて、理解出来なくて、苛々する。

「…離して、エンヴィー。」
「your name、」
「は、離してよ…」

私の名前を静かな声で呼ぶエンヴィーを遮り、震える喉から声を絞り出した。ほんの少しだけ、間が空く。
気まずい空気に苛立った私。いつまでも離れない手を振り払おうと、力を込めた腕は見事に空振りした。意外にもエンヴィーが手を離したのだ。
拍子抜けした私が、思わず彼を凝視すると、当人は黒髪を揺らして微笑んだ。
それはもう、彼の意地の悪さが滲み出るような微笑みで。先程まで漂っていた哀愁や険悪な空気が嘘のよう。
唐突に変わった場の空気とエンヴィーの雰囲気に着いていけず、一瞬思考を手放した。
驚き、不安、怒り、意味の分からない感情が、我先にと溢れ出す。顔の筋肉がつりそうなくらいの百面相に、エンヴィーがくすり、と笑った。

「僕ホントに、your nameのそういうところ好きだよ。…いや、」

好きなんて物じゃない、大好きだよ。と、先刻人間について語った言葉の、対義語を用いる。声色も、表情も、さっきの物とは比べ物にならないくらい暖かくて、柔らかい。
そんな彼に対して、私は引きつった表情で疑問をぶつける。

「でも私…、人間だよ…?」

それを聞いたエンヴィーは、目を丸くして、固まった。

「だから訊いたんだよねぇ。your nameが人間じゃなかったら納得なんだけどー…」

唸りながら考え始めたエンヴィー。だが結局、分からないや、と言って楽しそうに笑う。
私も何だか、無駄に力んでいたことが恥ずかしくなって、床に座り込んだ。肩の力が一気に抜けていく。
私に適当に置かれた本が、下敷きになっていることにも気付かずに。

エンヴィーは人間が嫌いでも、私は好き。
その理由は彼にも分からないらしいけど、もしかして、などと考えてしまう自分。
そんな考えが思い付く自分が分からなくなって、私は出口の見えない迷路に迷い込んだ。


「僕、your nameが好きだよ。…ねぇ、your nameは?」

「す、…好きだよ。」

「人間じゃなくても?」
「あああ、当たり前じゃない!私はエンヴィーだから好きなの!」

意外にも、出口は直ぐそばにあったのかもしれない。気付くには、お互いにまだ早いだけ。

だって、出口の無い迷路なんて無い、から。



fin





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