・第零章 夢であるように番外編〜忘れられた時〜 君の名前は(ハロルド視点) 年中降り続ける雪のために真っ白に染まってしまった拠点を、少しだけ足速に歩いて行く。 普段なら一つしかない足跡が今日は二つある。それだけで心が踊って、つい何度も振り返って意味もなく眺めたい気分にもなるけど、自分の人よりは高いプライドと、子供みたいな行動に対する羞恥心がそんな衝動を押しとどめた。 だから、手を繋いでからは一度も後ろの彼の顔を見ていない。 「あのね、歩けるんならとっとと起きなさいよ!ここまで運んで来るのがどれだけ大変だったと……」 背後の人物が沈黙に気を利かせて話題をふってくるとは思えなかったので、自分から何かを話し続けた。でなければ間が持たない。正直、こっちががいたたまれない。 だが、出て来るのは心にもない憎まれ口ばかりだった。もっと話したいのに、話を聞きたいのに、和気藹々と誰かとの時間を共有したことのない自分には、気の利いたセリフの一つも思い浮かばなかった。 何のための頭脳か。何が天才か。 (何であんな所で寝てたの?何かあったの?身体は大丈夫なの?どこに住んでたの?家族は?何で胸にレンズがあるの? ……聞きたい事はたくさんあるのに……) ここに辿り着くまでの道中、何度も足を滑らせて雪に埋まったせいでほぼ全身についてしまった雪。それが体温でとけてきてじんわりと湿った服が外気に晒され、身体はますます冷えていく。 でも、繋いだ右手だけは暖かかった。 差し出された時には夢かと思ったけれど。 ひっこめられそうになって慌てて握ったら、ちゃんと触れて、夢なんかじゃなくて。 あまりに暖かすぎて、らしくもなく離したくないと強く願った。 「ちょっと!人の話聞いて……」 照れ隠しもあってか相手の顔が見れなくて、でも、あまりに反応がないのがどこかひっかかって。 振り返った先に見えたのは、まるで糸の切られた操り人形のように力なく地面に崩れていく姿だった。 暖かい手は、いとも簡単に滑り落ちていった。 「………ぁ……!」 突然の事態に驚いて、どうにかしなきゃならないと思う心とは逆に、身体は全く動いてくれなかった。 どうすればいいのかが、わからなかった。 相手を呼ぼうと口を開いたところで、そういえばまだ名前さえ聞いていない事に思い当たる。 「え、危な……っ!?」 だから、その倒れていく身体が雪の中に落ちてしまう寸前で、どこかから現われた金髪の少年の腕によって辛うじて支えられたのを見ても、フリーズして動かない頭がますます固まってしまうだけだった。 有り体に言えば、 (誰よコイツ?っていうか、この人はどうしちゃったワケ?やっぱり雪の中で倒れてたくらいなんだからどこか悪かったのかしら?病気?怪我?もしかしたらあのレンズと何か関係があるのかしら?でもさっきまで普通に手繋いで歩いてたじゃない。そうよ、歩けるんなら何で私があんなに大変な思いしてここまで連れて……………じゃなくて、そこは後でもいいのよ。とにかく今は) いつになくかなりパニクっていたわけで。 「アンタ……誰…?」 結局口に出したのは、一番最初に脳内に浮かんで来た問いだった。 相手の少年は一瞬だけきょとんとして首をかしげたかと思うと、すぐさま目の色を変えて切迫した雰囲気で詰め寄って来た。 「いや、そうじゃなくて!この人!いきなり倒れて、意識ないみたいで…!自己紹介なんてしてる場合じゃ…!!」 「わ、わかってるわよそれくらい!稀代の天才と呼ばれようが、化け物とかって気持ち悪がられようが、私だってパニクる事くらいあるんだからっ!」 呆然と立ちすくんだ上に的外れな問い掛けをしてしまったのが今更ながらに恥ずかしくなってきて、どこかに追い払う意味も込めてそう叫んだ。 だって、きっと彼は気付いていないのだ。今ここで向かい合っているのが、ベルセリオスの妹だという事に。 この拠点にいる者なら、近寄るはずなんてないのだから、どうせすぐに知らぬふりして立ち去るのだ。 「あ、ご、ゴメン。君だって驚いたんだよね?そうだよね、いきなり目の前で倒れたんだから……」 そう思っていたのに。 立ち去るどころかその金髪の少年は、冷たいだろうに雪の上に座り込んで、おぼつかないながらも脈をとったり呼吸を確認したりしていた。 逃げも、避けも、しなかったのだ。 「……アンタ、私が誰か知ってるの?」 「え?あー、そりゃまぁ……ベルセリオスの妹っていえば有名だから、ね……」 さっき思わず叫んでしまった内容の事もあってかどこか気まずげに答えるものの、こちらを見る、そのまっすぐな視線は逸らされなかった。 もうここでは、兄以外誰もそんな風に向き合ってはくれないと思っていたのに。 「じゃあ、アンタ誰よ」 「な、何がどうなってじゃあなんて事に…?」 「アンタばっかり私の事知ってるのはズルイじゃない。とっとと名乗んなさいよ!」 我ながら理不尽極まりないと感じはしたが、こうでもしないと妙に浮かれてしまったこの気持ちが、そのまま顔に出てしまいそうだった。 緩みそうになる表情をこらえるように、少年をじっと睨み付ける。 「シ、シャルティエ……」 「ふーん。シャルティエ、ね……」 何度か、口の中で確認するようにその名を呟いた。自分の中の家族以外の特別枠に初めて入り込んで来た一つの名前。 「よっし、覚えたわ!じゃあちょっとこの人運ぶの手伝いなさいよ、シャルティエ」 「えっ!?」 「……何よその反応。まさか、こんなか弱い美少女に一人で運べって言うんじゃないでしょうね…?」 「別にそんな事は……」 「じゃあ決まり〜。ほらシャルティエ、向こう側から肩支えて!」 これで最低でも一週間は退屈から逃れられそうだと、シャルティエに見えないところで一人ほくそ笑んでいたのは言うまでもないだろう。 [戻る] |