皇帝と神子
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 宮城で着々と婚儀の準備が進められる一方、首都リコラの大聖堂もまた、収穫祭と皇帝の婚儀の支度に追われていた。
 聖導士たちは日々の勤めの合間に、普段は仕舞ってある祭服の虫干しをしたり、錫杖や鉦といった聖具の点検をしたりといった作業を熟す。清掃とて神子様をお迎えするのだと思えば気合いが入る。誰が言い出すでもなく、いつも以上に念入りに、それこそ礼拝堂の高い天井まで磨き上げる大掛かりなものと化した。
 他にも、収穫祭の期間中は特別に屋外に設ける祭壇の組み立てや、飾り付ける花々の手配などもしなくてはならない。
 日頃は静謐な空間も、この時期ばかりは下男や聖導士見習いの助士を巻き込んで、慌ただしい活気に満ちる。

 そんな中、礼拝堂の裏手脇に位置する倉庫と、倉庫に近い門の周りにだけ、ひどく長閑な空気が流れていた。行われているのは収穫祭で頒布する小麦の納入である。
 近郊の農地数ヶ所から買い付ける小麦は、決まった期間に各農地の代表者が数名ずつ、荷車に積んで運んで来た。
 聖堂側は質や量、産地を確かめては帳簿に記入し、基準に則して代価を支払い、代価を受け取った農夫らは、聖導師たちの指示に従って倉庫に小麦を収めてゆく。
 例年の事ゆえに顔見知りばかりであるし、売り買いするどちらもが慣れたものだ。
 収穫祭の準備の中で最も重要な作業であるにも関わらず、この場には軽い世間話を交わす余裕すらあった。

 買い付けの責任者であるニーノは、今日も恙無く終われそうだと、短くなった受付待ちの列を眺めた。
 今年はどこの小麦も出来が良い。この分だと代価で揉める事なく買い付けを終えることが出来るだろう。不作の年は審査の基準を緩めても一束当たりの価格が下がり、時には買い取れないものさえ出る。農夫から上がる不平を宥め納得してもらうのは、なかなか骨が折れる上に、彼らも生活が係っていると解るだけに心も痛む。
 質素倹約を生活の旨とする聖導士ではあるが、ニーノは、こうしたものは充分な対価をもって購うべきだと考えていた。同士の中にはもう少し費用を抑えられないかと零す者もいる。ニーノとて、相応以上の代価を支払うつもりはない。しかし神への感謝の印を節約するくらいなら、他を削って費用を工面する方が良いように思えるのだ。
 幸いこの大聖堂の首座も、こうした民へ還元するものへの支払いを惜しまない人だったから、小麦の買い付けには毎年充分に予算が組んであった。
 ニーノの胸にはこうして労を報われた農夫らの笑顔を目にするたび、双方が満足して取引出来たことに、神と大司教への感謝の念が湧くのだった。



「ニーノ。今日はもう、これで…」

「ああ、そうですね」


 受付を手伝う同士に促されて、ニーノは木陰で休憩する一団から門に立つ下男へと目を転じた。そろそろ半分閉めるよう指示すべく、合図を送る。が、走る勢いで向かってくる荷車を認め、上げかけた手を下ろした。


「やあ、間に合った!」


 飛び込んできた農夫は、流れる汗を腕で拭って大きく息を吐くと、牽いてきた荷車の後方へひょっこり頭を下げた。


「おかげさんで出直さんですみました」

「こちらこそ、同道させてもらえて助かりました。これも、神のお導きですね」


 応えて積み荷の陰から現れた男に、ニーノは内心で首を捻った。見たことのない顔だったからだ。
 男の耳の上で切られた髪は燃え立つように真っ赤だった。短く刈り込んだ襟足とは対照的に前髪だけが厚く、目許に翳を作っている。だがそれで隠せるような生半な美貌でないことは、遠目にもはっきり見て取れた。
 役者にもそうはいないだろう秀麗な男の顔にしばし見惚れていたニーノは、次いで目に入った首から下の様相に、再び首を傾けた。
 長身痩躯の男を包むのは、濃い灰茶の外套だった。この外套が不似合いに粗末だったのである。
 まず、あちらこちらに綻びを修繕した跡がある。こまめに洗ってはいるのだろう、この道行きでついたらしい土埃以外に目立った汚れはなかったが、全体的に煤けた色合いを帯びている。お世辞にも上等とは言い難い仕立てのそれを、長く着通していることが窺える古び方だ。
 細くとも均整の取れた長身といい、血潮のような赤毛といい、男の際立って見映えのする容姿に対してあまりにそぐわない粗末な衣服は、距離が縮むほどにちぐはぐな印象を強くした。


 

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あきゅろす。
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