皇帝と神子
11
ユッカは拳を緩く握っては解く仕草を繰り返し、そうやって己の意思で自在に動く手を見つめた。白く節の細い、労働の対極にある身だと示す手は、以前と何ら変わりなく映る。
だが、こちらに喚ばれた時、ユッカは確かに“死と再生”を体験した。まったく聞き取れなかった言葉が一瞬にして理解出来るようになった。あの繭のような光の内側を満たしていた“何か”──あれが自分の中身をすっかり変えたのだと、口にせずともユッカは解っていた。
ただ彼はその変容を、こちらの世界に順応する為の変化だと考えていた。あの通過儀礼を経たからこそ、こちらで不自由も不都合もなく過ごせるのだと、勝手に納得してしまっていたのだ。
しかしあれが、もしユッカを“神子という生き物”に変える為のものだったとしたら──。
「人外になってしまった」
「何の話だ」
愕然とした呟きに、それこそ愕然となったジュペスである。
「ああ。いや、ほら──」
聞けば頷けなくもない説明だったが、ジュペスはやんわりと神子はあくまでも人なのだと諭した。
如何に人々が“生ける神”として崇めようとも、確かに神子のその身は人だった。怪我もすれば病気もするし、寿命とて人と変わりない。ジュペス自身は神子というものを、「神の力を受け入れる敏感な器官を持った人間」だと捉えていた。
「ユッカは面白い物の見方をする」
「ジューも大概だと思う」
特別な価値があるというその口で、只人と変わらぬと言うのだ。神子を神聖視したい聖堂会が知ったら発狂しそうである。
「とにかく。今は何も感じずとも、必要あらば名に相応しい力を行使出来るようになると思うが」
「ふぅん」
その“名”は愛称でも適用されるのかと内心で首を捻りつつ、ユッカは気のない相槌を打った。ジュペスはそんなユッカを何気なく抱き寄せて、顔を近付ける。
「仮にユッカが何の力も持たんとすれば、それは私の所為だろう」
さらには憚かるように声を潜めた。
「私は『皇妃たる神子』を願った。その外の願いはない。身ひとつで叶う願いに応えて現れた神子なれば、摩訶不思議の力など持っておらんのも道理」
「そこで男の俺を寄越したのは、神様のいじわるか、間違いか……どっちだろうね?」
「訊くな。私はユッカで満足している」
ジュペスが声を低めて笑うと、合わせて揺れる後れ毛がユッカの頬を擽った。川面の光を受ける、きらきら眩しい白銀の髪が邪魔で、ユッカはジュペスごと押しやった。皇帝にこんな真似が出来るのも、皇帝が笑ってされるままになっているのも、ユッカだけである。
「まあ、ジューがこんな神子でも満足なら、精々それらしく『神子様』をやりますか」
「気負わんでいい。祝福は聖堂が用意する文言を諳んじてやれば良いだけだ」
「それだけ?」
「ユッカを目にすること自体が奇跡と言ったのは聖堂だぞ? 民に当代の『神子』の姿をしかと見せてやる。それ以上の奇跡を望むなど、僭越に過ぎて口に出せまいよ」
「うわあ、あくどい」
非難の言葉を吐きながら、ユッカもまた笑った。
笑いながら言う。
「今回はそれでいいとして、次はどうする?」
聖堂側の期待がそんなもので収まらないことは、二人ともよく解っていた。
生きている間に神子が降る確率は低い。その奇跡にも等しいことが起こったのだ。降って湧いた“奇跡”とどうにか縁を結びたくて、聖堂会の上層はあれこれ画策しているに違いないのである。
神子が一度でも聖堂の申し出を受けたとあれば、事あるごとに担ぎ出そうとすることは想像に難くなかった。
「聖職者の真似事まではしたくないなぁ」
「真似事で済めば良いが」
ジュペスはもっと深刻に見ていた。
国内だけで済むうちは良い。しかし国内の要請に繰り返し応えれば、何れ国外の聖堂会からも神子の来訪を望む声が上がるようになるだろう。国外の聖堂会はジュペス帝の埒外にある存在だ。属国の聖堂からだとしても無下には出来ないものなのに、もしもそこに総本山が絡んできたら、まずもって断れない。
結果としてユッカは長期間、外遊することになるだろう。下手すれば数年に及ぶ可能性もあった。
婚約者が単身で、数年間の諸国漫遊──如何にも面白くない。
加えて、ユッカがそうして帝国を空けている隙に、今度は側妃を宛てがおうとする動きが活発化しそうでもある。
「そこで本題なのだが、今度の収穫祭で挙式してしまわんか?」
ならば先手を打つまで、と、皇帝は大真面目に言い切った。
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