唐紅に
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「……えーと。センセ、正気?」


 持ち掛けられた“取引”は、何ともビックリなものだった。腕を外されていたのもあって、思わず数歩、引いてしまった。


「なんで、そんなものが欲しいの」

「俺は正気だし、そんなもの、じゃない。とても価値のあるものだ」

「いや、価値って大袈裟な…」

「どれだけ凄いものか、お前もそのうちに解る」


 あくまでも真顔で素晴らしさを説くセンセは、本当の本気で言っているのだろう。
 でも俺は、父さんのサインに、人を脅してまで手に入れる価値があるのか解らなかった。

 そう。センセが望んだのは、俺の父親──春色雅生(ハルシキ マサオ)教授のサインという、何とも価値を見出しにくい代物だったのだ。

 芸能人や小説家のような──有名人なら、ファン心理でサインに価値を見出すこともあるかもしれないけど、学者の価値って論文とか研究成果にあるんじゃないのかな。サインなんて、落書きと変わらない気がするのは、俺だけだろうか。


「……やだなぁ。センセってば、父さんのファン? …………いやいや、まさか」

「……悪かったな」

「ですよねー……って、えぇ!?」


 他にサインを欲しがる理由もないだろうと、揶揄い半分、自棄半分で口にしたのに。正解だったとは。

 きまり悪そうに目線を泳がすセンセは、ほんのり目許も染めていて、冗談で言っている雰囲気じゃなかった。



 ……どうしよう。まさかの父さんのファンに遭遇してしまいました。


「確かに父さんの話は面白いけどさ」

「論文を読んでいるのか?」


 学者のファンねぇ、と首を傾げる俺の呟きに、センセが喰い付いた。


「や、本は難しくて。でもどんな研究をしているのかとかは、一応知ってますよ」


 父親は、大学で民俗学を研究している。その関係の話は、小さい頃からよく聞かされていた。

 幼児の寝物語には少し早い気がするのだけど、異界巡りだとか異類婚姻譚だとか、民話や昔話に絡んだ話は随分聞いたと思う。俺も嫌いじゃない。最近では祭りと信仰の関わりなんかも滾々(コンコン)と語られたし、限られた分野とはいえ、この歳にしては結構マニアックな知識を植えられたのではないかと思っている。


「異界巡りか。懐かしいな。甲賀三郎の富士巡りは俺も学生の時に調べたぞ」

「ああ、ありますね。スサノオの話の方が俺は好きだったけど」

「根の堅州国──古事記か?」

「や、普通に子供向けの神話で読みました」

「そうか。じゃあ鏡花は読んだ事あるか? 春色先生はこちらにも、幾つか触れていらしたんだが」

「読みますよ。でも、うーん……あっちは物語として読む方が好きだなぁ」


 うっかりマニアックな話に華が咲く。
 センセは民俗学者のファンというだけあって、柳田翁や民俗信仰などは勿論、不思議と文学作品にも造詣が深かった。俺も父さんや、父さんのゼミ生さん以外にこれだけ話せる相手は初めてで、ちょっと楽しい。

 センセも両手で俺の肩をしっかりと握り込み、子供みたいに目を輝かせて顔を覗きこんでくる。その姿にさっきまでの、実は紳士な色男振りは微塵もなかった。


「でもな、やはり先生の凄さは論文が一番解る。大胆な仮説も頷けるだけの裏付けがあるし、何より知識が半端じゃない。下手な小説よりも興味深いぞ。あれを読んでないのは損だ。是非読んでみろ」


 静かだけど熱の籠もった声音で語るセンセは、実に生き生きとしていた。民俗学談義から、春色教授が如何に素晴らしいかを語り始めて、熱弁は止まるところを知らないみたいだ。



 あぁ、本当に好きなんだ。



 佐々木センセは、見るからにエリート臭をさせて、人を顎で使っちゃう事に抵抗がなさそうで、万事にスマート且つクールそうなのに。

 そんな彼が他人の事をこれほど熱心に褒め称える図というのは、何というか、冷静に見ると非常に面白かった。
 込み上げてくる笑いを必死に抑える。

 自分の父親のファンだなんて、ちょっと複雑な気持ちになるけど、この人は嫌いじゃないと思った。


「教育学の面でも近年注目されていらっしゃるじゃないか。凄いよな。一昨年発表された教育論では、分野を超えて依頼があったらしい、……何だよ変な顔して」

「センセって、意外と可愛いね」


 思ったままに褒めたら、口をへの字に結ばれてしまった。



 あらま。



 

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あきゅろす。
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