唐紅に
きゅん




「先輩……。あき、せんぱい、か…」





 何度かもごもごと口の中で呟く安芸先輩に、室温が更に下がった気がした。誰もが見てはいけないものを見たかのように、そっと安芸先輩から目を逸らす。


「あ、安芸がっ、安芸が…!やっべ、マジウケる!」


 室内の妙に凍った空気をぶち壊したのは、やっぱりと言うべきか、西尾先輩だった。
 遠慮なく噴出すと、彼はソファの座面を叩きながら、腹を抱えてヒーヒー笑った。


「にっあわねー! たかが、名前呼ばれたくれぇで、照れるとか…!」

「……悪いか」


 笑い過ぎて噎せる西尾先輩に、安芸先輩がぼそりと返した。目許にやや力が入っているようだったけど、赤くなっていることもない、至って普通の顔である。……これで照れ? と、いうか、今の会話に照れる要素はなかったよな。


「……委員長のこと、名前で呼んでンの」


 西尾先輩に続いて回復した坂口先輩が、首を傾げた俺と目を合わせ、同じように首を傾けた。


「え、だって安芸さんですよね?」

「そうね、支倉(ハセクラ)安芸さんだね」

「…………え、」

「今知ったっつー顔だな」

「……今、知りましたとも」


 偽名?
 それとも、通り名的なアレ?

 と、一瞬でも考えた俺は、どうやら友人たちの世界に染まり過ぎていたようです。
 そうか。安芸って苗字じゃなくて、名前だったのかー…。


「おまえ本当に外部生なんだなぁ」

「実感したわ」

「俺も。班長の言ってた意味がよーやく解った」

「コイツ危なっかしいだろ」


 口々に訳の解らない感嘆を洩らす面々に、適当な紹介をした張本人が、嘆かわしげに肩を竦めてみせた。
 いやそんな、大笑いしてる人に非難されても。

 西尾先輩は「安芸」と呼ぶし、トールちゃんは「アキチャン」と言う。他は皆「委員長」とか「あの方」とか呼ぶのだ。俺はまさか、初対面の人間に名前のみを伝えるとは思っていなくて、今の今まで、苗字だと信じて疑わなかった。

 ああ、でも。知らなかったとはいえ、馴れ馴れしかったかも。さっき先輩は、照れたんじゃなくて、戸惑ったんじゃないだろうか。呼ばれ方に拘りのある人だっている。


「すみません、支倉先輩」


 頭を下げた俺に、安芸……いやいや支倉先輩は、ハッとしたように首を振った。


「そうじゃない」

「へ?」

「安芸、が、良い」


 生真面目な顔で「安芸と呼んで欲しい」と、先輩は繰り返す。

 あれ。本人から許可が出た。だったら構わないのかな。

 今更呼び方を変えるのは、自身が混乱しそうでもある。ここは言葉に甘えることにして、俺は、手に持ったままだった携帯を掲げた。


「じゃあ、安芸先輩。番号教えてくれますか?」

「ん」


 いそいそと携帯の赤外線ポートを合わせた安芸先輩は、どことなく嬉しそうに頬を緩めた。ううん、和むなぁ。男前なのに、安芸先輩は端々が可愛い。

 そんな俺たちを見ていた西尾先輩は、まだしつこく笑っていた。


「なぁなぁ、コータ、安芸のこと“お兄ちゃん”って呼んでみろよ」


 そして、どうしたいのだろう。そんな妙なことを言い出した。
 急かされて安芸先輩を見遣ると、此方は此方で、何だか期待に満ちた目をしていた。



 ええと、


「お兄ちゃん、?」

「……っ」

「ちょーおもしれー! 安芸キメェ!」


 うっひゃっひゃ、と、西尾先輩が涙を流して笑い転げた。見守っていた周りからは「ムッツリ…?」だの「そういう趣味が…」だの、呆れとも憐れみともつかない囁きが上がる。



「あー…と、安芸先輩、何か、すみません…」


 口許を覆った隻眼の美丈夫は、耳まで真っ赤になっていた。

 小さく聞こえた「いい…!」という科白は、聞かなかったことにしたいと思う。





 

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