唐紅に
5
またも独りになったけど、教科書を読む気にはならなかった。曰わく“アドバイス”だったらしい寮長の言葉が、耳の奥から離れなかったのだ。
『コタはもう少し、周りから向けられる感情を意識しないとなぁ』
インパクトの強かった後の会話ではなく、この科白だけが何故か繰り返して流れた。寮長はどういうつもりで俺に言ったんだろう。
本人も言ったように退屈ついでの暇潰し?
それとも立場上、俺が何も知らずに過ごして起こり得る面倒を避けたかった?
はたまた本当に心配されていたんだろうか。
「済まない。待たせた」
しかし考えが纏まるよりも先に、センセが戻ってきた。思考が中断する。
「お帰りなさいです」
センセは仕出屋さんとかで使うみたいなビニル袋を提げていた。それが何ともミスマッチで、俺は笑わないように目を逸らす。
「誰か来たのか?」
正面に腰を下ろした色男は、ビニルからファイルを取り出しつつ首を傾げた。
「鍵が開いていたが」
「寮長がいらしてました。窓からセンセが見えたとかで」
「それで開けたのか?」
不用心な、と、トールちゃんと同じように諫められて、ちょっと笑ってしまう。
「鍵は掛かってなかったみたいですよ。がらーってドア開けてましたもん」
センセは真偽を問うように目を細めたけど、ややあって溜息を吐いた。
「まあいい。それより、こっちが先だ」
ファイルから出したB4サイズのプリントが俺の前に広げられる。几帳面に角を合わせて折られていたそれには、びっしりと5教科の履修済み単元が書かれていた。
「教科書には目を通しているよな」
「一応は」
「予習はしたか?」
教科書は全て最後まで読んでいる。でもプリントをざっと見た限り、中学で叩き込まれたのは範囲の3分の2程度だった。
それも受験勉強と平行していたから、きちんと覚えている自信がない。
ありのままに伝えると、教師の顔になったセンセはそれでも満足そうに頷いた。
「結構しっかりと予習してるじゃないか」
褒められて、胸の辺りがじんわりと熱くなる。
あの勉強漬けの日々が報われた気がしたのだ。
先生達、熱血指導をありがとう。正直スパルタにはうんざりしてたけど、やってて良かったです。
進捗具合で、詳細な確認は不要と判断されたらしい。
四月中はどの教科も範囲のお浚いをすること、不安があれば特別課外もやるから、必要な部分だけそっちに参加すれば間に合うだろうことなどを説明され、思ったよりも早く話は済んでしまった。
「昼飯にしよう」
「あ、はい」
その一言で、荷物を纏めて立ち上がる。帰ったら何を食べようかと考えていたら、怪訝そうにしたセンセに腕を掴まれた。
「……? えっと、まだ何か?」
「昼飯、紅太の分もあるんだが?」
腕を掴むのとは反対の手が、仕出し屋さんなビニル袋を指差す。
えええ、何そのサービス。
今センセに後光が射して見えるんですけど。
「教職員は忙しくて食堂に行けない事も多いからな。注文しておけば弁当を用意して貰えるんだ。味は保証するぞ」
本当に2つ入っていた黒塗りの弁当箱を並べたセンセは得意そうだった。何か可愛いな。やっぱり俺は、こういうセンセのが好きだ。
「美味そうだろう」
「おおお」
平たくて大きな弁当箱の蓋が開けられる。お目見えした豪華なおかずと漂う匂いに、俺は即座に釘付けになった。
竜田揚げ。
角煮。
枝豆入りのヒジキ。
筑前煮。
つやっと黄金色の、出汁巻き玉子。
「これ、本当に俺も食べていいんですか?」
そこまで空腹は感じていなかったはずなのに、胃がキューキュー鳴った。
「おまえが食ってくれないと、1つが無駄になる」
センセは唾を飲み込んだ俺に、紳士な笑顔を零して割り箸を差し出した。
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