唐紅に
2
「明芳に来て欲しい」
簡潔に告げられた言葉に、俺はぽかんと口を開けた。
「明芳って、あの、明芳学園?」
爺ちゃんが理事長で、理一さんは学園長をしている学校。
身内が経営する学校の事は、俺もよく知っていた。
それに爺ちゃんの学校なのはさておいても、明芳学園はそもそも有名過ぎる学校だ。こういう事に興味のなさそうな友人が、滔々と語れるくらいの有名校。
全国でもトップクラスの偏差値と、幼稚舎から大学院まで(これってちょっと“揺り籠から墓場まで”みたいな表現だ)揃った、高度な一貫教育。それに確か、中学と高校は全寮制の男子校で、妙に詳しかったその友人は「随分しょっぺぇ学校だ」と評していた。
「うん。うちの学校を受験して欲しいんだ。……その、父さんが利かなくって」
理一さんの父さん──つまり俺の爺ちゃんは、宇城伊周(ウジョウ コレチカ)さんという。
若々しい外見と茶目な性格をしたダンディズムの人で、俺の恩人でもある。
闊達に笑う姿を思い浮かべて、爺ちゃんが言い出したなら仕方ないなと思った。
突拍子のない事をやって周りを驚かせるのは彼の趣味だし、何より一度決めたら、滅多と曲げない頑固の人だった。
「受けるくらい、いいよ?」
俺の頭で難関、明芳に合格するか判らないけど、受験するのは自由だ。
お気楽に考えて、俺は眉尻を下げて顔色を窺う理一さんに請け負った。
この宇城という一族は、日本で有数の金持ちらしい。
親戚の話なのに曖昧なのは、実感がないから。
俺の父さんは大学の先生で、その父親と大恋愛の末に結婚した(と、熱く語っていた)母さんは、実家とは無関係に専業主婦をしている。そりゃお盆や正月には母さんの実家である宇城のお家に顔を出すし、理一さんは勿論、宇城の爺ちゃん婆ちゃんがうちに遊びに来ることだってある。
でも宇城の家が桁外れな金持ちだって事は、その本邸が敷地内で遭難出来るくらい広いとか、あちこちに別荘を持ってるとか、そんな部分でしか俺は感じなかった。
友達には共働きの両親も多いから、母親が専業主婦でいられる我が家も、きっと“裕福な家庭”に入るんだろうな、くらいは察することが出来る。
それでも俺はお坊ちゃんなんて呼ばれる身分じゃない。
本物のお坊ちゃん達とは馴染めるはずがないと思った。
だから万が一合格出来たとしても、伝統的に良家の坊ちゃんが多いと聞く明芳には、入学したくなかった。
爺ちゃんの気が済むなら受けるだけ受けて、近所の公立高校を本命にすれば良い話だ。
「……そうすると、最低でも、私立2本と公立1本を受けなきゃだ」
明芳は滑り止めにはなり得ないから、他に合格確実な私立も探して……。
まだ1年以上も先の受験について、こんなに早くから考える事になるなんて。
「あの、紅太? ごめん、言い方が悪かったのかな…」
実感湧かないよなぁと腕を組む俺に、理一さんが躊躇いがちに言った。
「紅太が受験出来るのは、実質、うち1本なんだけど……」
「へ?」
「あらあら。紅ちゃんは、のんびりさんねぇ」
明芳しか受験出来ないって、どういう事? と首を傾げた俺に、やんわりと母さんが口を挟んだ。
っていうか、マイペースな母さんに“のんびり”と言われたくない。ムッと眉を寄せて抗議した俺に、母さんはころころと笑った。
「お祖父様はね“絶対明芳学園に合格するように、今から勉強に励みなさい”って言ってるんだわ」
「は!?」
「落ちて他の学校に通っても、きっと受かるまで編入試験を受けさせられるわよ」
「あぁ、お義父さんならそうするだろうね」
唖然とする俺に、ほんわか夫婦はにこにこと止めを刺した。理一さんも隣で深く肯く。
「暴走を止められなくてごめん。紅太の進路、勝手だけど決定しちゃったんだ」
目眩を感じた俺におずおずと差し出されたのは、明芳学園高等部の過去問集──。
その日から俺はガリ勉太郎に変身した。
高校浪人も、編入試験も、お断りだ。
猛勉強に猛勉強を重ねて、それこそ血反吐を吐く思いで頑張った甲斐があって、俺は無事、合格通知を手にした訳だけど。
「やっぱり、これはないって」
眼前に広がる非常識な規模の学園に、予感めいた先行きの不安を覚えた。
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