3 影‐かげ‐
走っても、走っても、後ろとの距離は変わらない。
息が上がるなか、背後から聞こえるバタバタと慌ただしい足音が、嫌に響く。
もう、ふらふらだった。体力は底を尽き、気力で走っているようなもの。
少しでも気を抜けば足が縺れ、少ない距離が更に縮む。
気を四散させた途端、頬のすぐ側で何かが鋭く風を切った。
瞬間、ひんやりとしたものが蒸気した頬を伝う。続けてぴりっとした微かな痛みを感じ、放たれた矢で掠れ切られたことを意識の片隅で知った。
「ッ…はっ、はぁ…おにい…ちゃ…」
己以外の全てが敵だった。唯一の支えがあの人だけ。
意識が薄れていくなか、手足一本すら動かせず、弁慶はとうとう倒れ込み地にひれ伏した。
*****
「…っ、今のは…ここは、そうか。」
九郎は不意に意識を浮上させ、目の前に広がる天井をぼうっと眺めた。
寝台の傍らで、かさりと物と物の擦れ合う音がして。
師の姿を視界の端に捕らえた。
「九郎、目を覚ましたか。」
「先生…俺は、どのくらい眠っていたんでしょうか。」
寝起きの声は掠れ、喉が渇いている。
頭が割れそうなくらいガンガンと鳴り響き、激しい痛みに襲われる。
記憶では、ここ数日の間やたら意識が朦朧としていたのを覚えている。
体が発熱し、吐き気と眩暈に見舞われた。フラフラとした足取りでようやく宿を見つけ、寝台に身を投げたまま昏倒し今に至るのだ。
未だ、夢現を彷徨っているような気がしてならない。
僅かに頭の位置をずらすと、己の肩口には、白龍が体を小さくまるめて眠っていた。
額から、熱を吸い取って温くなった手拭いが、ずるりと滑り落ちる。
深呼吸を繰り返すものの、見た夢の苦しさが抜けない。胸の高鳴りもまた然り。
ついっと視線を扉とは逆方向の、窓の外へ向けた。
陽がずいぶんと高い。
「俺は、一体どのくらい眠っていたんだ??」
僅かに身じろぐと、硬直していた身体がキシキシと悲鳴をあげる。
「五日ほどか。」
呟きにも等しい声量に答えが返り、九郎は己が眠っていた期間に思わず目を瞠った。
あまりもの長く、短い間混沌と眠り続けていたことに驚きつつ、ストンと胸に落ちて納得している。
「時々魘(うな)されていた。大事ないか?」
「はい、大丈夫…だと思います。あの、喉が渇いて…」
「水と、粥のようなものを持ってこよう。主人に頼むから、少し待っていなさい。」
目覚めたばかりの九郎の、複雑な心境を察してかリズヴァーンは座っていた椅子から立ち上がる。
大きな手が、橙色の髪をまとう頭を優しく撫でていく。寝台のそばにある台の上に置いてある、ボウルと額から滑っていた手拭いを手に持って、足音を立てず部屋から出ていく。
口実とはいえ、今は少しでも一人になりたかった。
“夢”が気になって、仕方がないのだ。
師には悪いと思うものの、布団を頭まで引き上げ視界を外気から遮断させる。
気がつけば、また夢の中にいた。
回りが霞んで、精神を散漫させないよう地を踏みしめて前へ進むのみ。
宿の一階から静かに階段を昇り、九郎と白龍がいる部屋に戻ったリズヴァーン。宿の主人と話し込んでいたために、用意してもらった粥が入った器は、人肌くらいの温さになっていた。
「きゅー…」
寝台の上で布団が盛り上がり、九郎の姿が見えない。しかし、ふいに布団がもこもこと動いた。
息苦しさを覚えたのか、白龍が不機嫌そうに小さく鳴いて隙間から顔を出す。
リズヴァーンはふっと微かに笑んだ。
「…巻き込まれたのか。」
出て行ったときと同じように静かに歩み寄り、台へと盆を置く。
物音一つしない室内には、九郎の苦しげな呻き声だけがリズの耳朶を震わせて。
碧眼の双眸は細められ、苦々しい言葉が溜息と共に零れ落ちる。
「…九郎、お前は…この運命を受け入れるしかない。今は、耐えるんだ。頼む、耐えてくれ…」
口元が苦く崩れ、目を背けて思わず手で覆い隠す。
外は夕暮れの、悲しみの色に染め変え始めていた。
*****
「忌わしい奴め!お前が生きている意味などないんだ!!」
それは言いがかりだ。
この世に生を受けたのなら、生か死を選ぶのは神のみぞしる。
生きたいと、死にたいと望むのは、己自身のはず。
―…あくまで、普通の者ならば…―
忌わしいとされる、金色のような髪に中性的な美貌を持って生まれたから。
まるで、その村の昔からの伝承である“鬼の姫”のような者であるために。
村の者から迫害され、生みの親でさえ距離を置かれた。
すべてが敵だった。
助けは唯一、一人。血の繋がった、優しい兄だけ。
蔑まされ、逃げ道はなかった。身も心も虐められ続け、ついにはひたすら頭を地につけて、逃げ続けた。
どんなに無様だろうと構わない。痛いのは、傷つくのは嫌だったから。
逃げるようになって、余計に兄の元へ通い続けた。自身は物置小屋に追いやられていたのだ。
兄のいるところが、唯一心身共に安らげる場所で。大きな手で頭を撫でてくれて、とても嬉しかった。
とても、落ち着けたのに。
僕を匿っていることが村中に知れ渡り、別々に引き離されてしまった。
兄は近くの村へ流されたと、流れてきた噂で知る。
対して僕は、敵の―領主の―城の隔離された塔へ、幽閉された。
出入り口は一つだけ。逃げ道は、一つとしてなく、絶望的な気持になった。
その日も、満天の星空に浮かんでいたのは、眩しいほどの望月。
天井にある、小さな窓から降り注ぐ光が辛うじての明かり。
高い、高い場所から手を伸ばせば、星屑が今にも落ちてきそうで。
実際零れ落ちたのは、琥珀色を持つ両の瞳から溢れた透明な雫と、押し殺した嗚咽のみ。
悲しさ、寂しさに胸が締め付けられる。
“鬼の姫”と呼ばれた、名を弁慶という者が捕らえれ幽閉されてから三日後。
近くの村や街には、様々な噂が流れだす。
無料HPエムペ!