2 月‐つき‐
不思議な体験をしてから、早数日が経つ。
あちらこちらを渡り歩くため、謎の歌人の存在はすっかり忘れていた。
だが、街中を歩けば時々、噂を耳にする。
不特定多数の情報に、九郎は不意打ちに思い出され頭を抱えたくなったことがあった。
「よく分からんが、その人物は、いつ現れるか分からないということだろうか…」
「そうではない。恐らく、聞くところによると周期なのだろうな。見る人によって、様々な姿になる。」
「先生…自分の目で確かめるほかないのか。」
師の言葉に、眉をひそめ苦い表情を浮かべる。
遠くから見える街は、まだ陽の光を浴びている。
雲の少ない青空が、朝日から夕焼けへと少しずつ変化させていく。
「今宵は野宿だな。早めに準備をしよう。」
「はい、先生。白龍、お前も手伝うんだ。」
九郎の肩に乗り、首回りで小さく丸まっていた白龍はピクリと体を揺らして、華麗にジャンプすると地面へ飛び降りる。
瞬き一つで背中まである長い髪を揺らして、好青年の姿に転ずる。
「……今夜は、月が満ちるよ、きっと、良いことがある。」
こじんまりしたテントを張り終えたころ、夕焼けは宵闇の帳を下ろし始めていた。
白龍はそんな空を見上げ、九郎に聞こえるよう呟く。
「…は?」
「ううん、なんでもない。信じるか信じないかは、九郎次第だから。」
「そうか…」
東の空から、明かりのいらない眩しいほどの満月が顔を出す。
九郎の鼓動が自然と高鳴り、眠れない夜となる。
しっかりした木の根元に腰を下ろし、真上から地上に惜しげもなく光を降り注ぐ月に視線を流した。時は、真夜中だろうか。
何故か目が冴えてしまい、ぼーっと眩い星々や月を見つめる。思考すら働かず、明日に響いてはいけないと顔を伏せて瞼で瞳を覆う。
ようやく、夢と現の狭間を彷徨い始めたころ九郎の意識が覚醒する。
突如、辺りが光り輝いて少しずつ通常の暗さへと戻ったのだ。目を閉じていてもわかるほどに。
九郎は何が起こってもいいように、目を瞑ったまま神経を研ぎ澄ませる。
「…っ、今のは一体…?」
呟きを零した刹那、“音”が凪いだ。
…―森羅万象が、無音に変わった―…
木々の揺れ、風の音、鳥の羽ばたきさえもしなくなった。
呼吸を止めた。己の、存在以外の全てが。
まるで、これから現れる何かに脅えているような様子。
リズヴァーンのことが気がかりだが、今はただじっと息を潜め様子を窺うだけ。
「これは、あの時の…歌か。」
数日前に聴いた、あの澄んだ不思議な歌声がどこからか聞こえてきた。
確信めいた呟きが、無意識のうちに口唇から零れ落ちて。しかし、違和感に首を傾げる。
「だが前のとは、少し違う気がする…?」
自然は呼吸を止めたまま、安らぎの歌声に耳を傾けて聞き入る。
凛としているのに、憂いを含んだような哀愁漂う声。悲しみが、己の中に入り込む歌。
思わず目を開け、謎の歌人の姿を視線で探す。
程無くして、見つけた。何故なら、九郎の傍でひっそりと立ち、佇んでいたのだから。
月明かりに照らされた姿は、神々しいほどに美しく、また儚げで。手を差し伸べるにも、躊躇うくらい綺麗なのだ。
仮に己の胸に抱きしめたとしても、壊れてしまうのではないかと危惧してしまう。
九郎ができることは、息を呑んで様子を見守るのみ。
歌人は少し躰を揺らしたかと思えば、軽やかにステップを踏み始めた。
まるで、水の上に立っているかのように、足元には幾重にも波紋が広がっていく。
言葉すら生み出せない状況の中、時が過ぎ去るのを忘れ踊る様を見つめる。
「お、前は…何者、なんだ……?」
九郎の絞りだす声に呼応したのか、舞っていた歌人は足を止めた。光を反射する金色の長い髪を振り乱して、振り返った。
にこっ、と九郎へ向けて微笑みかける。僅かに唇が動く。
―…また、あいましょう…―
ドクンと、心臓が跳ね上がり、かぁっと頬に赤みを乗せたのは九郎。
思わず呼び止めようと腕を伸ばせば、すぅっと陽炎の如く影が薄くなり、空気に紛れてやがて消えた。
辺りにはざわめきが戻り、変わらない満月が真上より西側へ移動していた。
今の光景は、月が見せた幻なのかは九郎には分からない。しかし、現実なのだと納得している自分がいる。
目を擦れば、鬱蒼と覆い茂る葉や暗がりが広がるばかり。
きっと疲れているのだろうと無理矢理に結論付けて、朝がくるまで深い眠りに就いた。
この出会いで、二人の歯車が複雑に絡み、廻り始めたのだった。
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