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天使と悪魔の事情
理想。命すら捨ててしまう程。 前編(クロハ+バティン)

 散り際は美しく、誇り高き華であれ。
 汚れを残さず、理想は高く清くあれ。

 ――ああ、死した姿のなんと醜いことか。


理想。命すら捨ててしまう程。


「くだらぬ……何が名誉のためだ」
 ぽたり、と赤い筋をつくって、刀から命の雫が滴り落ちる。
 少年は、母の血濡れた骸を見下ろした。
 一族でも評判であった、流れるような黒髪の、美しい女。しかし今は、自慢だった髪も己の流した命の水溜まりの中。苦痛と死への恐怖で歪んだ顔は、この場に地獄を見たかのようだった。
「死ななければ名を汚し、だが死は恐ろしく自分を殺せない。だから息子に殺させるなど……馬鹿げている」
 少年は感情が抜け落ちたような無表情だが、その冷ややかな目線には怒りが感じられる。
 つい、と目を背け、母譲りのぬばたまの長い髪を、欝陶しそうに血のついたままの刃でザクリと削いだ。
 落ちていった髪が、浸る紅蓮の水溜まりに浮く。血の池地獄、あるいは地獄の業火の中か。
 頭によぎったたとえに、クッと皮肉めいた苦笑をもらした。
「……くだらぬ。名誉のために命を絶ち、地獄へ堕ちるか」

 ――クロハは東国の有力一族のひとつ【飛王族】の皇子である。

 彼には数人の兄と姉がいるが、クロハと同じ母親――目の前で赤に沈む女――であった兄の1人が、一族にとっての不利益な失態をおかして亡くなったのだ。
 そしてその母親もクロハの名誉を守るためこうして自害するに至ったのである。
 蔑みにも似た暗い瞳で女を一瞥し、後始末のために動きだそうとすると……

「ふうーん。なんや、東国にもどす黒う心、持つもんも居るんやね」

 人払いをしたはずの王妃の部屋に、場違いなほど暢気な声が響いた。
 突然の声に、クロハは心臓をはねさせながら、声がした窓の方へ勢いよく身を翻す。
 振り返った先には、東国の民族衣裳に似た浅葱色の服を纏った黒髪の青年が、窓の棧にあぐらをかいて座っていた。
 青年は人好きするような明るい笑みを浮かべて、
「ご機嫌麗しゅう、飛王殿下。うちはバティン。よろしゅうな」
 と、手をひらひらと振りながら自己紹介をしてくる。コバルトブルーの瞳は、心の中をまるで写し取るかのようで、その何もかも見透かされるような眼差しに、クロハは寒気を覚えた。
 加えて、人間が持ち得ない気配が青年から放たれている。この大陸における神話には神だけではなく天使悪魔も登場しているのは知っていたが、もしこの男が人ではないモノだとしても、この心が騒つく気配の持ち主は天使ではないだろう。
「……貴様、悪魔か」
 クロハが睨み付けて訊ねた言葉に、バティンは賞賛するかのように手をならした。
「そのとーりっ! あんさんに力授けまひょ思うてね、参上したんよ」
 バティンがそう答えると、クロハは体に緊張を走らせる。
「去れ。悪魔がこの東国領域に踏み入るでない」
 クロハが威嚇を込めて手に持った短剣でバティンを指すように突き出すと、バティンは肩をすくめた。
「そうもいかんねえ。あんさんみたいな強い想いを抱いとるの、せっかくの掘り出しもんなんやもん、見過ごせんわ」

 天使悪魔にとって、人間の心――想いの強さは重要になってくる。
 信仰の力は天使に力を与えるが、負の感情こそが悪魔の力となり、その想いが強ければ強いほど、悪魔の力は増していく。悪魔の力が強ければ、召喚者の力もまた強いものとなるのだ。

「うちは正真正銘“悪魔”でなあ。他の奴らは心ん闇を具現化するいう方法やけど、うちは“呼び出す”方法を授けるんよ」
 悪魔との契約は天使ですら手を出せなくなるからなあ、とバティンは笑う。
 バティンは本来より悪魔だ。
 しかし、ルシファーとの出会いで、主神から天使の力と地位を与えられていた。今はルシファーとともに堕天し、再び悪魔としてその身を投じている。
 ルシファーの念願を叶えるために、バティンは上級天使が使う心の闇を具現化する術ではなく、あえて悪魔を喚びだす魔方陣を人間に教えているのだ。
「あんさんに悪魔を呼び出すための方法を教えたる。やるやらないは自由や。ただし、覚悟は必要やで?」
 悪魔を召喚するには【サングエ・チェルキオ】と呼ばれる契約の魔方陣を自分の血で描かなければならない。これは『血の契約』と言われる。
 だが、交渉が決裂したり、悪魔との相性が悪かったりすればその瞬間に八つ裂きにされる。悪魔を呼び出した時点ですでに血の契約の儀は終えたも同然の状態とされ、召喚の代償として自分の血肉を差し出さなければならないのだ。
 要は、悪魔との契約内容というよりも、相性が問題となる。
 そして、その契約が終わればやはり血肉を捧げるしかない。召喚者は覚悟と人生を求められるのだ。
 この【サングエ・チェルキオ】による契約は、召喚者本人にしか契約破棄ができず、天使でも断ち切ることができない強い結び付きができる。言ってしまえば、望んで、同意の上での契約なのだから、天使の介入は余計な世話に他ならないのだ。
 悪魔側に明らかな悪意があるとされないかぎり、天使ですらその契約自体に異を唱えることはできない。あるいは、召喚者が大きな罪を犯した場合に限られるのである。
 その条件をのみ、悪魔を使役できるだけの気概をもつのかどうか。
「心配なんかせえへんでも、あんさんやったら、使役できるんとちゃう?」
 クロハの気質と地位なら、《公爵》クラスの悪魔でもない限りうまく立ち回れるだろう。彼は悪魔という存在をすんなりと受け入れたのだ。その上バティンに臆することなく刃を向けた。少なくとも肝はすわっているといえよう。
 それだけを伝えると、バティンは懐から一冊の本を取り出す。それを窓の棧にそっと置くと、自分は外に身を乗り出し、
「じゃあ、うちはここらでおいとましまひょ」
 と、黒と白のまるで鶴のような翼をその背に顕現させ、彼方へと一瞬のうちに去っていったのだった。

* * *

 気配が消えたあとも、クロハはしばらくの間、思考にとらわれ動かずにいた。
「悪魔を呼び出す……か」
 ぽつりと呟くと、窓に向かい、皮肉なほどに晴れ晴れしい青空を見通す。
「覚悟など。我らは誇り高き飛王族。生まれたときよりすでにある。だが……」
 一瞬の俊遵のあと、クロハはバティンの残していった本を手に取った。ぱらぱらと捲ると、そこには【サングエ・チェルキオ】に関することと、契約魔方陣の描き方が書かれている。
 それを見て、クロハはふっと笑った。

 母は自分の子の名誉を守るため自害した――否、自分では自分を殺せないと、息子である自分に手に掛けさせた。
 しかし……クロハは名誉などいらなかった。
 誇り高き飛王族といえど、愛情に勝るものなどないと、彼は考えてきたのである。
 たとえ側室の子という身分であろうと、兄弟の失態で一族から追い出されようと、母と兄、家族で慎ましやかに暮らせればそれで良かったのだ。
 身分などいらなかった。一族のために身分を捨てざるを得なかったのならば、そんなものいらないとも思っていた。
 だというのに――母は、地を這いずってでも自分と生きることより、名誉としての死を選んだ。

 家族より、誇りを選んだ女。

 潔いとされるのかもしれない。だが、クロハは母に捨てられたのだと感じた。
 結局彼女は、クロハや家族に理想や名誉、誇りを守れと押しつけて死んでいったのだ。
「はっ……名誉を守ったところで、私にこの王宮で生きていけるだけの力があると思っていたのか……」
 しかし、皇子の母として、理想の高かった女はもういない。
 もう、勝手な理想像を押しつける者が自分の庇護にまわることはない。
「“名誉”のために大切なものを失わなければならないような世界……そのような誇りなど……いらぬ」
 クロハに生まれたのは、一族に対する憎しみだった。一族に関するものすべてを壊してしまいたいという思いが膨らみ、心に暗い影が渦巻く。

 ――壊してやる。無駄に誇り高い理想をもつような一族を、そして、その理想に拍車をかける敵対勢力など、壊してやる。

 この契約が成功さえすれば、壊すための力が手に入るのだ。
 ――自分の誇りなどもう必要ない。これは、復讐だ。
「悪魔を使役する王……それもいいだろう」
 そうして、この国の皇子は契約の魔方陣を描くために己の手を剣で切り付けたのだった。

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