天使と悪魔の事情
零れ落ちた涙は翼となった 2
あの邂逅のあと、自分が『転移魔法』を使えると知ったバティンは、そこから離れようと決めた。
バティンは洞窟から姿を消し、山のさらに奥深くにある大樹のもとに居着き、その根本で膝を抱えて蹲っている。
同胞となるべく関わりをもちたくなかったのだ。
あの血濡れた光景が目に焼き付いて離れない。
それから幾月経ち、バティンは人間を喰らうどころか、襲うことすらせずに過ごした。
意識がさまよっていたころ、そこに1人の訪問者が現われる。
少々不機嫌そうな紅い眼が、バティンを見下ろした。
「バティン」
「……」
ベルゼビュートが自分の名を呼ぶが、黙ったまま俯いていると、苛立ちのまじった声に変わる。
「何故なにも喰わない。死ぬぞ」
いくら悪魔とはいえ、飢餓で死ぬ。何かを糧にしなければ生きられない。
バティンとてそれは理解していた。だが、感情がそれを拒む。
ぎっ、とベルゼビュートを睨み付け、嫌悪もあらわな荒げた声が出た。
「……いらん。あんなもん喰うくらいやったら、死んだほうがましじゃ」
「おかしなことを言う。貴様も悪魔、それも高位の魔物のくせに」
変なものを見るかのようにその男はいう。いや、実際自分は変わっているのだ。
自分でもおかしいとわかっている。
(なんで……眷属なのに、うちがこいつらに抱くのが……“嫌悪感”なんや…)
と、突然目の前にドシャ、という音とともに何かが投げられた。
―――それは、ぐったりと手足を投げ出した人間の子どもだった。
「なっ…」
「喰え。貴様には狂気が足りん。一度喰えば、気持ちも変わろう」
恐怖に冷や汗をながし、バティンは後ずさりしながら首をふった。
「嫌や! うちは喰わん!」
その態度に、今度こそベルゼビュートは怒りに牙をむき出しにする。
「いつまでも駄々をこねるなガキが。貴様のような力をもつ魔物は数が少ない。戦力は多いほうがいい。死なれると損だ」
ざり、とバティンに近づくと、バティンもその分あとずさった。
と、ふいにベルゼビュートは何かに思い当たったように、不機嫌な顔から、玩具でも見つけたかのような凄絶な笑みを浮かべる。
「ああ、そうだった。このまま放っておいても、どうせ狂うな」
「な……に…?」
「貴様は高位の魔物なんだ。それも、別に本性をもっているような、な。そんな奴が簡単に死ねると思うなよ。再生能力は並みじゃないし、狂気への衝動にかられる。天使の聖なる力でなら話はべつだが、そのうち貴様は飢えに堪えられなくなって、自分から手を出すさ。本能が勝ってな」
「……っ!?」
ベルゼビュートの足元に、闇が広がる。
「飢餓で死ぬか、飢えて狂気に染まるのか。楽しみだな。くくっ、ははははははは!」
「黙れっ!」
頭に血が上り、高々と笑うベルゼビュートに拳を突き出したが、影に溶け込むように消えられ、それは空をきった。
「ちっ…」
腹立たしさに小さく舌打ちをすると、おもむろに投げ出された子どものもとでしゃがみそのあどげない顔を覗き込む。
突然とらわれて、この子どもは何を思ったのだろうか。
はかりかねて、バティンは目を伏せる。
「……堪忍なあ…うちは、あんさんの命、無駄にしてまうわ」
無駄に命をおとさせるくらいなら、とは思うのだが、それ以上にたべたくはないという気持ちのほうが強い。
くしゃりと頭をなでると、手にぴくりと何かが動いたような振動が伝わってきた。
驚いて目を開けると、子どもが寝心地わるそうに身動きしている。
(生きとる!?)
意識を取り戻させようと、あわてて子どもの肩を揺さぶった。
「おい!? しっかりしいや!」
だが、意識はもどらず、眠ったままだ。
どうしようかと迷ったが、このまま人間のもとに戻した方がいいのかもしれない。すべては夢として。
「…せや、転移魔法を………うっ!?」
突如、バティンを襲ったのは、衝動だった。
悪魔のなかに眠る、血への渇望。
どくり、と全身の血が沸き上がる感覚。
意識が遠退くような、自分の意志が何かに塗り潰されるように、何かに侵食される。
「くっ……」
子どもの肩を揺さぶっていた手に力が入る。
何かに操られるように、その手が子どもの首にかかろうとする―――子どもを殺そうと。
(な……んで…っ!)
これが、本能……狂気への衝動だというのか。
―――負けてたまるかいっ…!
必死に自分を取り戻そうと、バティンは左手に力をこめて子どもから手を引き離し、震えるそれを己の首にもってきた。右手では子どもを突き放す。
左手はそのまま力をこめ、爪をたてて首筋を掻き切った。
「がっ……あああ…っ」
痛みに顔を歪める。鮮血が噴き出すが、それも一瞬のことだった。
その傷はすぐにふさがり、ただ血が傷があったことを示すだけ。ひとまず、衝動はなんとか抑えられた。
「くっそ……! あーあ…本当に死なれへんのか…」
肩で息をして、自嘲めいた苦笑をもらす。
(死んだほうがまし、ってのは、うそやないのに…)
それは、バティンのプライドだ。
生まれたばかりのバティンがもつには変な話かもしれないが、自分のなかでは譲れないもの。
(ほんま、おかしな話やで。悪魔のくせして)
けれど、これではいつか本能が勝つだろう。人を襲い、血におぼれ、狂気を得る。
(血が恐いんやない……殺すんが嫌なわけやない……)
―――“悪魔として”何かをなすんが嫌なだけや……
だから、とめてほしい。
自分を殺してでも、とめてほしい。
「…いっそ騒ぎおこして、天使に来てもらうんが早いかもなあ」
ベルゼビュートは『天使の聖なる力でなら話は別』だといっていた。ならば、天使を探すか、彼らがかけつけるような騒ぎをおこせばいい。
死にたくはない。でも死んだほうがましだなんて、なんという身の上だろう、と思う。
今度こそ、とまた転移魔法を使おうとするが、再びざわりと血が湧いた。
(力使おうとすれば、よけいにかられるんかっ、くそっ……!)
ここから動こうとすれば、きっとまたこうなる。火に油を注ぐようなものだろう。
人里までは遠く、子どもを帰すまて、自分のこの正気を保っていられるのか怪しいところだ。
最悪、自分がこの子どもを食らう。
悔しくてバティンは涙が出てきた。
ぎり……と地面にうずくまって指で地をえぐった。
「嫌や…っ…嫌や嫌や嫌や!!」
あふれ出た透明な雫が、大地に吸い込まれていく。
いく粒目かの雫が落ちたとき、それとともに落ちてきたものがあった。
(え…?)
―――白い……羽根?
ひらり、ひらり、ゆっくりとそれは落ちてくる。
光をおびたそれを手に取ると、すうっと消えてしまった。
「へえ…悪魔でも泣くんだ」
その言葉がスイッチだったかのように、バティンは勢い良くその羽根がおちてきた上空を仰ぎ見た。
そこにいたのは、紅茶色の長い髪を風になびかせた、金色の瞳をもつ青年。
そしてその背には、6枚の翼。
「あんさん、誰や? 白い翼と制服……天使か?」
驚いたようにバティンが訊ねると、青年はおや、といったふうに首を傾げたあと、地面に降り立った。
「僕を見てわからないのも珍しいね。ルシファーだよ」
と、ルシファーと名乗る青年は自分の右頬に刻まれたしるしを指差す。
「右頬に紋章……? あ…天使のリーダー…か…?」
アモンがくれた情報のなかに、確か天使のリーダーのしるしの話があった気がする。
「そ。で、君は何で泣いてるんだい? 飢えてるの?」
ルシファーの問いに自分のおかれた状況を思い出し、その問われたことについても嫌そうに相手をにらんだ。
「うちは喰わん」
「は?」
否定された意味がわからなくて、ルシファーは訝しげに目をぱちくりとさせる。
「手間が省けて助かったわ。その子連れてって、そんでうちを殺せ! 魔物は聖なる力で浄化されんと死なんらしいんや」
「ますます変な悪魔だな。何? 罠?」
さらに彼の眉がひそめられる。
それもそうだろう。普通、悪魔がこんなことをするはずがない。
わざわざ天使にたのむものなんて、もっともだ。
「おかしいっちゅうのは自分でもわかっとる。けどな、あいつらみたいな卑怯もんと一緒にすんなや。あいつら好かん。同胞や言われるんは反吐が出る」
同胞への嫌悪もあらわに、懇願するようにターコイズブルーで金色をじっと見つめる。
その真摯な瞳を受け、ルシファーは思案するように見つめ返した。
「……自ら死を請う悪魔か」
そう認識するように言うと、彼から視線を外して、ルシファーは倒れている子どもに歩み寄り抱き上げる。
翼をはためかせ、そのまま飛び去ろうとするのを、バティンはあわてて立ち上がってとめた。
「ちょ、ちょい待ち! うちは…」
「残念だけど、罪を犯していない悪魔は浄化の対象外なんだ」
「な……なんやて!? 天使は悪魔を片っ端から成敗してくんとちゃうの?」
だから悪魔たちは身を潜めているというのに。
「これ掟なんだ。狂気に染まらないようにするための、ね」
たとえ相手が悪魔でも、理由なしに殺してはならない。罪のないものを罰することは、理不尽なことこのうえない。
相手が悪魔だからといって殺戮をおかせば、むしろ天使のほうが悪徳だ。
「……まあ、君がこの人間を襲ったら、話は別だけど」
「……っ!?」
試すような笑みをつくるルシファーに、まだ自分は信用に足りないのだと、殺すに足りないのだとわかった。
ひとつ深呼吸をし、再びルシファーの金色をとらえる。
「……浄化してくれるまで、うちはここで待つで。何も喰わんと、待っとる。堪える。せやから頼む、うちが狂気に染まる前に、殺してーな…」
あまりにも悪魔らしくないバティンのしおらしさに、ルシファーは少しだけ感心したが、特別なさけをかけようとはしなかった。
「さあてね……君が何か罪をおかせば、すぐさま消してあげるよ」
ばさり、という翼のはためきとともに、ルシファーは空中へと飛び上がり、その姿は段々小さくなりついに見えなくなった。
「………待っとる」
ルシファーが飛び去った碧空を見上げ、バティンは立ち尽くしていた。
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