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先憂後楽ブルース
夏のとある日


季節は夏真っ盛り。今日から楽しい楽しい夏休みが待っている。外に出れば気だるい熱気が体を包むが、俺は懲りもせずまたベランダから外の景色を見下ろしていた。

「ここ結構いいだろー、隣の高層ビルには負けるけど、家賃安いわりに眺めはいいし! お前も見てみろよ!」

「…………」

返事がない。……無視かな。

ちょっぴり傷つきながらも俺は再び外に目をやり、この場所から始まった不思議な体験のことを思い出していた。

俺、垣ノ内リーヤは父親がちょっと特殊な職業についているだけの地味な男だった。けれどある時、父が原因不明の病にかかり、治療法を探していた俺はこのベランダから落ちてしまい、気づけば見知らぬ世界にたどり着いていた。そこで幸運にも治療法を見つけた俺だったが、あれはきっと偶然なんかじゃなかったと思う。
持ち帰った資料を基に作った治療薬で、父や他の患者さんも助かった。これはもう奇跡に近い。当然、資料を渡した医者にはこれをどうしたんだと訊かれたが、本当のことが言えるはずもなく、俺はただ調べたんです、とだけ答えた。納得はしてくれなかったが元々父さんの主治医だった人だ。面識もある。自分が調べた資料だと知られたくなかった俺は、治療法が見つかったのは医師達の懸命な努力のおかげだということにしてもらった。
俺がしたことは墓場まで持ってくことになったけど、父さん達が助かったんだから満足だ。だいたいあれは俺の手柄じゃない、みんなのおかげだ。

みんなのことを考えるたび寂しくなる。別れた時は、なぜだかまた会えるんじゃないかという気がしていたけれど、現実はそうもいかなかった。いや、もしかしたら、ここから飛び降りれば再びパラレルワールドとやらに行けるのかもしれない。ただ俺には、その勇気がなかった。

これ以上ここにいて寂しさにひたるのも嫌だったので、俺はクーラーのきいた涼しい自分の部屋に戻った。それに、帰ってきて良かったと思うこともたくさんある。家族の絆、身近な人の大切さを改めて感じ、その上新しい自分を見つけることが出来たのだ。

俺、垣ノ内リーヤは自分が思っていた以上に……。


「…なあ、リーザ」

部屋に戻った俺は、ベッドに横になっている弟、リーザに声をかけた。地毛の金髪に茶色い目、どこからどう見ても日本人ではない弟は、俺のコレクションの1つであるアンモナイトの化石をいじっていた。もし他人だったら、勝手に触ってんじゃねえよ、と怒っているところだが、リーザだからいいや。

「なあなあ、リーザってば!」

「なんだよ、さっきからしつこいな」

あ、やっと返事してくれた。

「実は俺、悩みがあるんだけど…聞いてくれる?」

「なに」

「…………ここ1ヶ月で、3キロ太った」

「…………」

「なんだよその目」

俺としては一世一代の悩みを打ち明けたつもりだったが、弟から返ってきたのはげんなりした侮蔑の視線。でも俺めげない。

「俺、どうしたらいいかな。このままじゃ将来メタボになっちゃうよ」

「…大丈夫だって。だいたい兄貴俺より体重軽いじゃん」

「お前と一緒にすんなって! お前のはアレだろ? サッカー部で培った筋肉じゃん」

試しに服の上から自分の腹に手を伸ばす。つまめた。

「やべぇ、……やっぱ高校でも部活入って運動するべきだったかな」

「え? 中学時代のアレって運動部だったのか?」

「当たり前だろ! 失礼なこと言うな!」

俺をからかって満足したのかリーザの興味はまたまた化石へ。なんだよ、俺が太ったのはお前のせいでもあるのに。

ここに帰ってきてからというもの、俺は弟が可愛くて仕方がなかった。俺は自分が思っていた以上にブラコンのようだ。俺達の関係は嘘みたいに修復して、今まで何でケンカしてたんだって首をひねるぐらいになった。だからこれは俗に言う“幸せ太り”ってヤツだ。そうに違いない。
俺はもそもそと着ていたシャツを脱ぎながら歩き、姿見で自分の腹を確認した。

「やっぱ、ヤバいんじゃないかなー…これから夏休みだし。ストレッチでもして筋肉つけよっかな」

「気持ち悪いこと言うなよ」

俺より身長もがたいもある弟にそう吐き捨てられ、俺は一気に悲しくなった。

今もリーザには冷たくされることはあるが、愛情の裏返しだなコイツ〜、でまかり通っている。なにせ俺が帰ってきた時、大勢の野次馬の前で俺を抱きしめ、お兄ちゃん大好き宣言をしたのだ。嫌われていると思う方が難しい。今日だってわざわざここまで遊びに来てくれた。生意気なところ含めて、ほんと、可愛い奴。

「つか兄貴が太ったのは調子こいて菓子ばっかボリボリボリボリ…ってえぇえ!」

「な、何どしたの!?」

「何でお前、上、服着てないんだよ!」

どうやらリーザは、俺がシャツを脱いだことに気がついていなかったようだ。いきなりうわずった声を出したお前の動揺の原因が、これか。なんでなんだ。

「さっき脱いだんだよ。そんな驚くことないだろ」

「脱ぐなら脱ぐって先に言えよ! 不愉快だ、客間に帰る」

「え!? ちょ、ちょ待てって!」

いきなりドアノブをつかみ出ていこうとする弟。彼の腕にしがみつき必死に引き止める。

「何で急にそんなこと言うんだよ! そんなに俺の腹って見苦しい?」

「放せ! 俺は部屋に戻って荷物の整理しなきゃならねえの!」

「整理なんかいらないって! だいたい夜はここで一緒に寝ればいーじゃん、荷物持ってこいよ」

「は!? 何それ絶対やだ! 死んでもやだ!」

リーザは目の玉飛び出そうなほどびっくりしているが、こっちの方がびっくりだ。まさかコイツ、お泊まり会なのに一緒に寝ないつもりだったのか?

「リーザそんな水くさいこと言うなって、せっかく泊まりに……」

弟をなだめようとしたその時、背後から声が聞こえた。俺を呼ぶ、声が。

「なあリーザ、今なんか聞こえなかったか」

「……は? 何いきなり」

どうやら弟は何も聞いてないようだったが、俺ははっきり聞こえた。しかも今の声、あの時のものとよく似ている。今すぐベランダに駆け寄って確認したかったが、その前に1つやることが。

「……リーザ、唐突だが俺は、自分探しの旅に出かけることにした」

「じ、自分探し? いきなり何言ってんだよ!」

リーザの驚愕も当たり前だが、今はそんなことかまってられない。俺は散々引っ張っていた弟の腕を今度は押し出した。

「っつー訳だからしばらく家には帰らない。母さん達に伝えといてくれ。あと鈴木さんにも!」

「何か全然話が見えてこねえんだけど。ってか鈴木さんって誰!」

「俺の家政婦さんだよ。台所にいただろ? じゃ、そういうことでよろしく!」

俺は無理やり弟を追い出して、部屋の鍵をかけた。リーザが何か叫んでいるのが聞こえたが、しばらくすると諦めて立ち去ってくれた。

俺は脱ぎ捨てたシャツをもう一度着て、そっと部屋の鍵を開けた。よし、これでもし俺があっちに行って、家をしばらく開けても大丈夫だ。………多分。

意気揚々とベランダに飛び出した俺は、手すりにつかまり身を乗り出してみる。けれど、やはりあと一歩、踏み出すことが出来ない。

駄目だ、やっぱ飛び降りるなんて絶対無理。怖すぎる。

しばらく身を乗り出したりしてみたが、やっぱり飛び降りる勇気はなくて。
深く深く、ため息をついた俺が諦めて部屋に戻ろうとしたとき、ぐん、と何かに腕を強く引っ張られた。そして俺は、そのまま後ろへ真っ逆さまに落ちていく。

ああ、この時をずっと待ってた。

リーザがちゃんと伝えてくれないと困るなあ、と思いながら俺は重力に身を任せ、ゆっくりと意識を手放していった。


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あきゅろす。
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