先憂後楽ブルース 001 「お兄ちゃんが帰ってるわよ」 ずっと安定していた俺の平常心を鈍らせたのは、母親のそんな言葉だった。 父は原因不明の病気で入院、毎日めまぐるしい忙しさで、心も体もやつれきっていたはずの母が笑顔になっていた理由が、やっとわかった。 アイツが、来てるんだ。俺の住む、この家に。 高校生になり、学校がここから遠いからという理由で一人暮らしを始めた兄。母さんは最後までしぶっていたけれど、俺は内心嬉しかった。 もう、アイツの顔を見なくてすむ。 そう思うと心が軽くなった気がした。 俺が追い出したようなものだ。出ていってくれて嬉しくないはずがない。 「あなた、まだお兄ちゃんと喧嘩してるの?」 俺の険しい表情を見て、母さんが悲しそうな顔をした。 「昔はあんなに仲が良かったじゃない。いったい何があったのよ」 「……別に、母さんには関係ない」 俺の拒絶するような言葉に、母さんはさらに、傷ついたような、泣きそうな目をしていた。でも俺の心はこれっぽっちも傷まない。もし母さんが俺の心の底の本音を知ったら、きっと正気ではいられなくなるだろうから。 これが、ベストな答え方だ。 「…お兄ちゃん、父さんの書斎にいるから。どんなに長い喧嘩中だって、兄弟なんだから会っときなさい」 兄弟。 そう、俺達は兄弟だ。でもごく普通の一般的な兄と弟ではない。普通の兄弟は、相手を意図的に傷つけたり、会うことに抵抗を感じたりしないだろう。ごくたまにそういう兄弟もいるのだろうが、それはそれなりの理由があるからだと思う。 でも俺達は違う。 俺達には、何も、なかった。 相手を憎むような事件も因果も、何も。 しいて言うなら俺が嫌だったのは“兄弟”という関係性だ。それこそ、憎んでしまうほどに。 何でアイツは、またいきなり帰ってきたりするんだ。何回、釘を刺しに行かなきゃならないのか。言う方が疲れるってのに、ほんと、わかってないな。 俺はドア開けてゆっくりと母のいる部屋を後にする。母さんの視線を痛いほど感じた。 [次へ#] [戻る] |