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先憂後楽ブルース
誘惑と当惑


いつの間に来たのだろう。甲板にはやや息を切らせたダヴィットと今まさに船の縁に足をかけようとするジローさんがいた。船員達も気がついていなかったのか突然のお偉いさん登場に全員固まっている。

「殿下!」

一番先にそう叫んだのはフィースで、顔を子供みたいにキラキラさせていた。どうやらダヴィットの姿を見て喜んでいるようだ。

「殿下も、俺の誕生日を祝いに来てくれたんですか?」

「違うわ、馬鹿者!」

カンカンに怒っているらしいダヴィットは、殆ど走っているといってもいいくらいの歩き方で舞台に上がり、硬直したままの俺をフィースから奪い取った。

「リーヤは私の婚約者だ! 貴様なんぞに奪われる気はない」

「婚約者?」

そうなの? と俺に視線を向けるフィース。俺は否定も肯定も出来なかった。どっちを選んでも悲惨なことになりそうだったから。

「リーヤ、大丈夫か? フィースに無理やり連れてこられて大変だったろう。変なことしそうになってないか?」

「……う、うん?」

何かダヴィット訊き方おかしくないか。変なことされなかったか? って訊くもんだろ普通は。

「残念だったなグッド・ジュニア。リーヤのガードは鉄より堅いぞ! この私ですら、まだキスも許してもらってないんだからな!」

「………殿下、涙目」

すっとジローさんが差し出した白いハンカチをダヴィットはぶんどり、乱暴に涙を拭っている。
ごめんダヴィット、自分でも信じられないけど、俺結構フィースにほだされてました。

「他の誰をたぶらかしてもリーヤだけは許さない! お前みたいな奴、一度痛い目にあった方がいいんだ。…ジロー!」

ダヴィットはちょうど舞台に上がってきたジローさんの腕をつかみ、その背中を押した。

「いけジロー、こやつに世間の厳しさをおしえてやれ! 後先を考えない愚か者には必ず罰が下るとな!」

「え、ちょ僕無理です。嫌ですよ!」

恐怖からなのかジローさんの腰がひけている。それでもダヴィットは彼をぐいぐいと押し続けた。

「だらしないぞ、貴様それでも軍人か!」

「ぐ、軍人は人間としか戦わないんです!」

どういう意味だよジローさん。

「いいから、やれっ」

怒りをたぎらせるダヴィットに負けて、ジローさんはフィースの目の前に立つ。彼の顔はかわいそうなぐらい引きつっていた。無理もない。身長が2メートル近い傷だらけの大男が自分を見下ろしているのだから。

「…………」

睨み合うジローさんとフィース。ここにいる全員が事の行方を見守っている。先に口を開いたのはジローさんだった。

「………お」

お?

「…お誕生日おめでとうございます」

ペコッと頭を下げるジローさんにガクッとくるダヴィット。違うだろーが! と怒鳴る声が隣から聞こえる。だが緊迫した空気を変えたのはジローさんの間の抜けた発言だけではなかった。

「あ、ありがとう」

誕生日を祝われて嬉しかったのか、フィースはちょっと顔を赤らめ、はにかみながらいつもの眩しい笑顔を見せた。

やっぱりフィースからは変なフェロモンが出ているようで、俺は高鳴る自分の胸をおさえ心拍数を正常に戻そうと躍起になった。

「篝さんの誕生日は?」

「え?」

「知らないんだ誕生日。一方的に祝ってもらうだけじゃ不公平だろ」

「いえ、そんなお気遣いなく…」

「俺が祝いたいんだよ」

ぎゅっとジローさんの手をとる笑顔のフィース。なんだなんだ、この甘い雰囲気は。

「こらグッド・ジュニア! ジローにまで手を出す気か!」

「最低! フィース本当に最っ低!」

ブチ切れるダヴィットに俺は応戦する。最低と呼ばれたフィースは眉をピクリと動かした。

「リーヤ、何でそんなに怒ってるんだ。俺なんかした?」

「……」

したかしてないかと問われれば、した。でも本人にその気はないんだろう。どうせ説明しても無駄だし。

「リーヤは殿下の婚約者なのに、俺があんなこといったから怒ってんの?」

「違う! つか婚約なんかしてないし、それ以前に恋人でもないんだから」

勢いにまかせ暴露したが皆一同、そうだったの? とでも言いたげな顔をしていた。もしかしてこの人達、俺がダヴィットの恋人だと思っていたのだろうか。だとしたらフィースが結婚宣言した時もっと止めろよ。

けれど一番ショックを受けているのはダヴィットのようで、彼は子犬のような悲しそうな目をしていた。その潤んだ瞳を見ると俺はいたたまれなくなる。なんたって見た目は俺の可愛い弟だ。

「違うってダヴィット、別にダヴィットのことが嫌って訳じゃ…。友達としてならすごい好きだよ」

さっきの俺の言葉は好きじゃないと言ってるようなもんだ。こんな人の多い場所で言うことじゃなかった。反省した俺は必死に弁解するがダヴィットは目を伏せたまま首を振った。

「いいんだリーヤ、わかってる」

「ダヴィット…」

このやけに素直な、しおらしい態度。もしかして俺のこと諦めてくれたのだろうか。

「リーヤはただ、ジュニアと会ってちょっとおかしくなっているんだ。気にする必要はない」

「………」

「悪いのはすべて貴様だ、グッド・ジュニア!」

きょとんとするフィースにダヴィットはビシッと人差し指を突きつける。そんな彼の様子を見て、フィースは頬の傷をポリポリかきながら俺に一歩近づいた。

「何かよくわかんねぇけど、とりあえず殿下とリーヤは付き合ってないわけだ」

「…まあ」

むむ、とフィースを睨むダヴィットを横目で見ながら俺は控えめに頷いた。

「だったら俺とリーヤの間に障害はないってことだな」

「…?」

いやいや婚約云々以前に同性という立派な障害があるんですけど。あ、ここではそれが普通なのか。

「良かった」

心の底から安心したような、穏やかで綺麗な表情を見せるフィース。彼が笑うだけで周りの空気が一変する。そんな人に優しく顎を持ち上げられても俺は抵抗なんて出来なかった。

「んっ!? んん…っ」

避けられなかった俺の唇は、当然のようにフィースの口でふさがれる。突然の深いキスから逃れようとしたが、口の中を何かがぐるりと這った瞬間、俺の体の力は一気にぬけた。

「あ"ーーっ!!!」

まさに阿鼻叫喚のダヴィットが慌ててフィースに蹴りを入れ、俺を敵から守るように抱きしめた。俺はダヴィットの二の腕をひしっと掴み、思いっ切り酸素を吸い込む。

「グッド・ジュニア、私を本気で怒らせたな! こうなったら貴様をこの都市から追放することもいとわ………リーヤ?」

俺の異変に気づいたダヴィットは、ずるずるとへたり込む俺の肩をゆする。俺もダヴィットの肩をさらに強くつかみ返して、ぎゅっと力を込めた。

「腰、抜けた…」

「!」

男にキスされた俺がやけに冷静なのは、そのせいだ。驚きや混乱、嫌悪の前に“快楽”という感情に支配されていた。

「何でこんな、俺オトコなのに……うわっ」

男のキスだけで腰を抜かし自己嫌悪にひたっていた俺を、ダヴィットが突然抱き上げた。俗に言う、お姫様だっこだ。

「ダ、ダヴィット!」

おろしてくれ! と暴れる俺を落とさないようがっちりガードして、ダヴィットは上がってきた時と同じくらいのスピードで舞台からおりた。固まっていたジローさんも慌てて付き添う。

「帰るんですか?」

後ろからフィースの寂しそうな声が聞こえ、ダヴィットは怒った顔のままぐるんと振り向いた。

「責任もとれない男にリーヤはやらん。お前に渡すぐらいなら監禁でも幽閉でも何でもしてやる」

未来の国の代表が堂々と犯罪宣言。俺の動揺とは逆に、公共の場でのおもわしくない発言をダヴィットは気にもしていないらしく、彼の大きく響く足音は一歩一歩怒りを込めているようだった。
ダヴィットに抱えられた俺がちらりと見たフィースの最後の表情は、初めて会った時のそれとまったく同じだった。


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