先憂後楽ブルース
嵐の前の静けさ
「リーヤ、大丈夫? 顔色が悪いよ」
「あ……」
茫然とする俺の肩にローレンがそっと手をのせる。先程のショックから抜け出せないでいるとローレンが優しく手を引いてくれた。
「かなり気分が悪そうだ。一度洗面所に行こう。僕の手に掴まって」
ローレンに促されるままに立ち上がる。俺はずり落ちそうになっていたジローさんの上着にきちんと腕を通し、ローレンにそっと手を引かれながら自分の部屋を後にした。
「何があったのか、訊いてもいいかな」
薄暗く人気のない廊下を歩いている時、ローレンが静かに訊ねてきた。俺は先程のことをなるべく思い出さないようにしながら小さな声で答えた。
「……リーザが、俺の事好きだって。ずっと好きだったって、そう言ったんだ」
「……それは、兄弟としてじゃないね」
「……」
察しのいいローレンが淡々とした口調で言う。ゆっくりと歩く彼は前方を見据えたまま俺の顔を見ようとはしない。今の俺にはそれがとてもありがたかった。
「でもこれで、彼がリーヤを嫌っていた理由はわかった。きっとリーヤを傷つけるくらいなら、離れた方がいいと思ったんだろう。結果的にはこうなってしまったけれど、彼は最後まで弟でいるつもりだったんだと思うよ。今はつらいかもしれないけど、気をしっかり持って」
ローレンは涙を必死にこらえる俺を励ますように手を握りしめてくれる。けれどその優しい言葉と態度はギリギリのところで精神を保たせていた俺には逆効果だった。
「違うんだ、ローレン。そうじゃない。俺は……」
俺のことを好きだというリーザが信じられなかった。俺がいくら弟を愛していたとしても、それは家族としてでしかないのだ。兄である俺にあんなことができるリーザが理解できない。結局俺は今まで、弟のことを何一つわかっていなかったのだ。
「……あいつに会いたい。ローレン頼む、リーザに会わせてくれ」
俺は、リーザがあんなことをしてきたから悲しいのではない。大好きだったはずの弟に、一瞬でも嫌悪感を持ってしまった自分が許せないのだ。
「リーヤ、それは嘘だ。まだ彼とは会っちゃいけない」
「でも、俺は会わなきゃ。じゃないとアイツが……」
「リーザだって、すぐにはリーヤと会いたくないだろう。まずはお互い冷静になることだ」
ローレンの言葉はもっともだったが俺はとても冷静になどなれなかった。あの時の弟の別人のような鬼気迫る表情を思い出し、何か早まったことをするんじゃないかと不安でたまらなくなる。
「……ならせめて、リーザの様子を見せてくれないか。遠くからでもいい。じゃないと不安で……」
リーザは完璧な男だった。少なくとも兄の目から見れば、どこにも欠点などない自慢の弟だった。それなのに、どうして俺なんかを好きになってしまったんだろう。どうして俺は、あいつを傷つけることしかできないんだ。
「……いいよ、わかった。そんなに言うならついておいで」
自分の意思を頑として曲げようとしない俺にローレンは諦めたようにそう頷く。彼は俺の腕を引き廊下の突き当たりにあるエレベーターに乗り込み、下へ降りるボタンを押した。
「ローレン? リーザはダヴィットの部屋にいるんじゃ……」
「すぐには会わせられないって言っただろう。それに、兄さんの部屋になんかつれていけないよ」
「どうして」
俺の質問にローレンの表情が一瞬陰った。俺の手を握る力が強くなる。
「リーザがあんなことになって、兄さんは影武者がいない状態なんだ。暗殺者からすれば、今が狙い目だろう」
「なんだって?」
考えてみれば当然のことだが、リーザのことに気をとられすぎていて言われるまで気付かなかった。ローレンにすがるような視線を向けるもすぐに首を振られてしまう。
「駄目だよリーヤ。リーヤを危険な場所に近づけるわけにはいかない。それに兄さんには近くにいた兵士を護衛としてつかせている。廊下に誰もいなかったのがその証拠だ。大丈夫だよ、リーヤ。君が行く必要はない」
「……」
確かに、俺などが行ってもただの足手まといでしかないだろう。悔しいがここはローレンの指示に従っておくべきだ。
ずいぶんと長い時間をかけてようやくエレベーターの扉が開く。暗くひっそりと静まり返っているそこは俺がまだ足を踏み入れたことのない場所だった。
「ローレン、ここって……」
「地下だよ。駐車場として使われている」
この世界の地下は人々の暮らす街だが、どうやらタワーの地下は俺のいた世界と同じ、駐車場になっていたらしい。暗すぎる気もするが、確かにこの感じは地下駐車場だ。でもいったい彼は何故俺をそんな場所に?
「ねぇ、リーヤ。知ってる?」
エレベーターの扉が閉まり周囲がさらに暗くなる。静寂の中、ローレンのそれほど大きくはない声が響き渡った。
「リーヤはここに来たばかりの頃、護衛を断っただろう。でもタワーの中は必ずしも安全とはいえない。だからリーヤにバレないように、必ず一人はつかせていたんだ」
「……そうなのか?」
そんなのは初耳だ。確かに護衛は監視されているみたいで嫌だったからやめてもらったが、まさかこっそりつけられていたなんて気付きもしなかった。でもどうしてローレンはそれを知っているんだろう。そしてなぜ今そんな話をするのか。
「実は僕もその口でね。側に神妙な顔をした厳つい男がいると落ち着かないから、いつも気配を消してもらうようにしてたんだ。だからリーヤもそうなのかなと思って父上に訊いたら、すぐおしえてくれたよ」
言われてみれば王子であるはずのローレンの側にはいつも誰の姿もなかった。ダヴィットには常にジローさんがついているというのに。
「やっぱり拉致されたりしないか心配だものね。リーヤって、すぐに騙されそうだし」
「どういう意味だよ」
拉致、と聞いてここに来たばかりの時の剥製にされるという話を思い出す。ひょっとして俺はまだそういう奴らから狙われているのだろうか。
「でもね、リーヤ。今はリーヤには護衛はいないんだよ」
「えっ、なんで」
「兄さんの方についているからさ。言っただろう。近くにいた兵士全員を護衛につかせてるって。まあリーヤは僕と一緒にいたし、僕の護衛がいれば大丈夫だと思ったんだろう」
でも、とローレンは話を続ける。俺は隣で彼の言葉を黙って聞いていた。
「実のところ、今は僕の護衛もいないんだ」
「…どうして」
「この地下に来るには、今乗ってきたエレベーターを使うしかないからだよ。エレベーターの中には僕達の他には誰もいなかっただろう。非常用の階段を使ってでは時間がかかりすぎるし、ここには誰もいない。しばらくは二人きりだ」
「それなら、早く上に戻った方が……」
「大丈夫だよ、僕達を狙う奴なんかいないんだから。それにせっかくお膳立てしたのに、そんなことしたらもったいないだろう」
「え?」
言葉の意味がわからずきょとんとする俺にローレンは微笑む。握った手は離さないまま。
「ごめんね、リーヤ」
なにが? と訊ねる間もなく、ぐっと手を引かれ、何かスプレーのようなものを至近距離から吹き掛けられた。慌てて目をつぶってローレンから逃げようとしたが、腕を掴まれているためそれもできない。
「ぶっ、あ、なにす……っ」
噴霧状のそれを吸い込んだ途端、すっと気が遠くなる。何が起こったのか、ローレンが何をしたのかもわからぬまま、俺はその場で意識を手放した。
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