先憂後楽ブルース
ドッペルゲンガー?
落ちていくとき俺が思ったことはただ1つ。弟を助けなければ、それだけだった。俺は向こうにトリップするとわかっているが、弟はどうなるかわからない。むしろこのまま落ちて死んでしまう可能性の方が高かった。
「リーザ!」
俺の腕を掴んでいた弟の身体を引き寄せ、死んでも放すもんかと強い力で抱きしめる。こんなことで、俺のせいで、リーザを失うわけにはいかない。
神様、どうか弟を助けて――
俺は意識を失っても、掴んだ彼の手を放すことはなかった。
「んんっ……」
いつも通りの木漏れ日に目が覚める。腕の中にある温もりと視界のすぐ下にある金髪に、俺は心の底から安堵した。
「よ、良かった……、リーザ…!」
俺に身体を預けて眠っている弟をもう一度強く抱きしめる。こんなに神様に感謝したのは生まれて初めてかもしれない。俺は安堵のあまり涙をこぼしながら意識のない弟にすがりついていた。
「あにき…?」
頬ずりされて目が覚めたリーザは開口一番に俺の名前を呼ぶ。泣きべそをかいている俺に気づき目をまん丸くさせていた。
「兄貴、どうし…って俺達ベランダから…っ」
「落ち着け、リーザ。大丈夫だから」
「大丈夫って…俺達、死んだんじゃ」
「死んでないって。ちょっと待って、ゆっくり説明するから」
「説明? 兄貴はわかってるってのか? だいたい、ここはどこなんだよ」
いきなり見知らぬ場所に連れてこられたのだから動揺するのが普通だ。あわてふためく弟になんとかわかってもらおうとするも、何と言っていいかわからない。俺がいきなり、ここは異世界なんですと説明しても余計な混乱を招くだけだろう。けれどいつまでも隠しておくわけにはいかない。
「リーザ、少しだけ黙って俺の話を聞いてくれ。実は――」
順を追って説明しようとした矢先、ぐわんぐわんというお馴染みの音が聞こえてきた。とっさに顔を上げる俺達の上に大きな影が覆い被さってくる。浮上している赤い電車に、リーザは顎がはずれそうなくらい驚いていた。俺は動揺している弟が何かしでかさないように、その身体を支えながら電車がゆっくりと下降し停車するのを待っていた。
「リーヤ様、たいへんお待たせ、いたし……」
ドアから出てきたのは、いつもなら無表情美人のはずのダーリンさんだった。しかし彼女は隣にいる弟を見て珍しくも驚きの表情を見せていた。
「で、殿下!? 何をなさっているんですか!?」
俺には見向きもせずにリーザの元へ駆け寄るダーリンさん。弟は弟で、突然空から電車に乗って現れた金髪の女性を見て唖然としている。
「髪はどうなされたのです! しかもなぜそんな服をお召しに!?」
「ダーリンさん、ちょっと落ち着いてください」
今度は弟ではなくダーリンさんをなだめる側にまわる。しかしリーザをダヴィットとすっかり間違えてしまっているダーリンさんは聞く耳を持ってくれそうにない。仕方ないので俺はダーリンさんの耳元で思い切り叫んだ。
「ダーリンさん! こいつはダヴィットじゃありません! 俺の弟のリーザです!」
「…………は?」
この時のダーリンさんの呆気にとられた顔を、俺はこの先ずっと忘れることはないだろう。
その後、俺はダーリンさんとリーザの両方にこのにっちもさっちもいかない状況を説明するという難題をやってのけた。ダーリンさんは俺にダヴィットに似ている弟がいるということを知っていたので比較的早く事情を飲み込んでくれたが、問題はリーザの方だ。俺は彼をなんだかんだ言いくるめて電車に乗せ、ここに至るまでの経緯を端的にかいつまんで説明した。
「…と、いうわけで、ここは異世界になるわけなんだけど……どう? なんか質問ある?」
「……」
いきさつを話している間にとっくにタワーに到着していたのだが、俺達はまだ電車の中にいた。ふかふかのソファーの上に俺とリーザが座り、真向かいにはいつもの無表情に戻ったダーリンさんがいた。
「…百歩譲って、ここが異世界だとして、俺達は本当に家に帰れるんだろうな」
「それは、もちろん。だって現に俺が何度も行き来してるしな」
俺の突飛な話を聞いた後、リーザはしばらく黙り込んでしまった。今までの話を整理して考え込んでいるようだ。
「…わかった。現に空飛ぶ電車まで見たし、もう信じるよ。死後の世界だと考えるよりずっと楽だしな。ただ、1つだけ引っかかってるんだけど」
「なに?」
「兄貴がその、例のアウトサイダー? …ってやつなら、当然俺もアウトサイダーなんだろ。話によれば、アウトサイダーってのは何か理由があってここに呼ばれる。だったら俺がここにいる意味って何だ?」
異世界に来て数十分しかたっていないというのに、そんな真っ当な疑問が出てくる弟に少し驚いた。ここに初めて来たときの俺はとてもこんな冷静ではいられなかった。
「アウトサイダーが来ることに意味なんかないって言ってる人もいるし、あんまり深く考えなくていいと思うけど…。神様が俺の願いを叶えてくれたんじゃないかと思ってるよ、俺は」
「願い?」
「だってあんなところから落ちたら、怪我じゃすまなかっただろう。ここに来られて本当に良かった。意味なんかどうだっていいよ」
弟の頭をなでようとしたが俺の手はすぐに払われてしまった。昔ならいざしらず、今はこれが単なる照れ隠しなのだとわかる。頭をなで回したい衝動にかられたが、ダーリンさんがいることを思い出し思いとどまった。
「しかし、本当にそっくりなんですね、リーザ様と殿下は。私、まだ殿下なのではないのかと少しだけ疑っております」
ダーリンさんは納得できないとでもいうようにリーザをまじまじと見つめていた。ダヴィットを慕っている彼女としては見分けがつかないのが悔しいのかもしれない。だがどちらもよく知っている俺ですら髪型を一緒にされたら見分けられるか怪しいものだ。
「タワーでダヴィットに会えば納得できるはずです。そろそろ出ましょう、ダーリンさん。きっとダヴィットが待っています」
「それもそうですね…」
立ち上がるダーリンさんの後を追い俺達も腰を上げる。ダーリンさんがあんなに顔に出して驚いてくれたのだから、ダヴィットはどんな反応をするのだろうかと、俺はある意味で楽しみにしていた。
「ど、どういうことなんですかこれは…!?」
口をあんぐりと開けて驚愕していたのは、ダヴィットではなくジローさんだ。ダーリンさんに連れられて来た俺の弟を見て、普段から表情豊かな彼は目に見えて混乱していた。
「こいつは俺の弟のリーザです。なぜか一緒にこっちに来てしまいました。ダヴィットと似てるって、前に話していましたよね」
「…は、はい。ですがまさかこれほどとは…」
ジローさんは助けを求めるようにダーリンさんに視線を送る。彼女は自身も信じられないような顔をしながらも頷いた。
「つかダヴィット、さっきから黙っちゃってどうしたんだよ」
一番驚いてくれると思っていたダヴィットは、ダーリンさん並みの表情の乏しさで弟を見ていた。反応の薄さを不思議に思ったジローさんが不安げにダヴィットの顔の前に手をかざした。
「殿下? どうなされました?」
「わ…」
「わ?」
「私が2人いる…!」
「「……」」
驚きのあまり言葉も出なかったらしいダヴィットは、俺の弟を幽霊と対峙するかのような目で見ている。そしてそれはリーザの方も同じらしく、2人してその場に凍りついたように固まってしまっていた。
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