先憂後楽ブルース
忍び寄るは恋心
離婚寸前だった2人が和解し、今は仲良く抱き合っている。けれど俺はそのことよりもジーンの行動に驚いていた。黙って傍観していればタビサさん達がすれ違ったままになることは確実だったのに、ジーンはそれを自ら阻止した。だがそれもまたジーンらしい。俺なら、もし好きな人が恋人と別れようとしていたら、ジーンと同じ様な行動がとれるとは思えない。
感心する一方で、ジーンの気持ちを考えるとどうにもやるせなかった。あんなの簡単にできることじゃない。ジーンにとっても苦渋の決断だったはずだ。
仲直りをしたタビサさん達をしばらくの間見つめていたジーンだが、やがて音もなくリビングから抜け出した。
「ジーン、待っ…」
慌ててジーンの背中を追いかけると、彼はそのまま玄関に直行し家を出て行こうとする。すぐに呼び止めようとしたが、いきなり腕を乱暴につかまれ俺は前につんのめった。
「リーヤ、お前どこ行くんだよ」
振り返ると、そこには不機嫌そうな表情のクロエが立っていた。いや、奴は常に不機嫌そうではあるが。クロエもジーンを追ってきたのだろうか。
「ジーンが外に出ていったから追いかけようかと思って」
「なんで」
「なんでって、…なんとなく?」
「だったら行く必要ねぇよ。ここにいろ」
「いやいや、何言ってんの」
今日のクロエはいつにもまして変だなと思いつつ、俺は奴を無視してジーンの後を追おうとした。けれとその瞬間さらに強く腕を引かれ、すぐ横にあったクロエの部屋に無理やり引きずり込まれてしまった。
「なっ、なにすんだよ! 放せ! どういうつもりだ!」
「それはこっちのセリフだっての」
俺の抗議はすべて無視され、クロエの手により部屋のドアが閉められる。外界から遮断された薄暗い部屋の中で、俺は背中を壁に押し付けられ身動きがとれなくなった。
「兄貴はお前を必要としてねえだろ。だからこそ1人で出て行ったんだ。なんで追う必要がある」
「そりゃそうだけど…。クロエだって今俺に用なんかないじゃん。俺の行動を制限してどうする気だよ」
「俺がここにいろって言ってんだからいろ。それともお前は、俺より兄貴を優先するのか」
「な、に…」
クロエのイラついた様子の顔が間近に迫り、俺の身体はすくむ。クロエの気迫と腕と足に阻まれてどうにも逃げられない。
「だって、俺はお前が一番なのに、お前は俺が一番じゃないなんて理不尽だろーが!」
「な…」
なんなんだクロエ、その自己中心的な考え方は。いつ何時もお前を優先するなんて、できるわけないだろう。
「一番とか、なんでそんな優劣つけるんだよ。クロエのことはジーンと同じくらい大切に思ってる」
「だったら兄貴を追わないで、ここにいればいい」
「……」
確かに、俺がジーンと一緒にいたってろくな言葉をかけてやれないし、ジーンは1人になりたがっているのかもしれない。だとすれば俺はこのままクロエと家で待っているべきなのだろう。頭ではわかってる。でも、それでも俺は、やっぱりジーンをほっておけない。あいつがどこかで悲しい思いをしてると考えただけで胸が痛む。だからジーン本人から拒絶されるまで、俺は彼の側にいたい。ジーンにはいつも笑っていてもらいたいんだ。
「ごめん、クロエ。俺やっぱり行くよ。俺がジーンの近くにいたいから…」
俺は小さく深呼吸をして冷静さを取り戻す。ここまできっぱり言えばクロエももう止めないだろう。そう思っていた。だからクロエの次の言葉は予想外だった。
「お前、兄貴が好きなのか」
「す、すき?」
好きかと聞かれれば、俺の答えは決まっている。ただクロエのいう“好き”は彼がいつも口にする言葉の中では異質のような気がした。
「好きだよ、決まってるだろ」
「兄貴の恋人にでもなる気かよ」
「はあ?」
俺の間抜けな声にクロエの綺麗な顔がしかめっ面になる。こいつ、黙ってればタビサさんに似て上品な顔してるのにな。まあ、彼女も中身は上品ではないが。
「あのなぁ、ジーンは男で俺も男! 恋愛感情があるわけないだろ」
「それだけか」
「え…」
「理由はそれだけか」
「そ、そうだけど。なに、文句でもあんの」
クロエの眉間に深い皺が刻まれる。なんだよもう、怒りたいのはこっちだっての。早く解放してくれなきゃ、今からじゃジーンを見つけるのは大変だ。
「ならお前は、あいつの性別だけが問題ってわけだ。そんなの理由になってない」
「…?」
理由になってない? 十分すぎるほどの理由じゃないか。だって俺は男でジーンも男──
…いや、違うな。男と恋愛なんてありえないと言っているのは、俺の中の常識の部分だ。ここにはそんな常識なんかないし、現に俺は一度男に惚れてしまったではないか。
「…っああ、もうわけわかんねぇ! 何でこんな難しく考える必要がある! 俺はジーンが大切で、ジーンのために何かしてやりたいって、それだけじゃ駄目なのかよ! 俺はクロエを一番大切な友達だと思ってる。でも今、俺はジーンの側にいてやりたい。クロエの言う通り、確かに俺はお前よりジーンを優先させようとしてる。でも、だから何だっていうんだ。そんなの俺の勝手だろ! さっさと手を放せ、クロエ!」
ドンッ!
「……っ」
ものすごい音と共にクロエの拳が壁にめり込む。俺の顔からわずか数センチのところだ。
「やっぱりお前、兄貴が好きなんじゃねえか」
「…だ、だからなんでそうなる!」
「違うって言うなら、俺の目を見て否定してみろ。あんな野郎、これっぽっちも好きじゃないって。一番好きなのは俺だって、今ここでそう誓え」
「お、お前が一番…?」
「俺のこと一番の友達だって思ってんだろ。だったらいいじゃねえか」
「ああ…そういうこと」
なんだかよくわからないが、すっかりキレてしまったクロエを落ち着かせるためだ。俺がクロエのことを一番の友達だと思ってるのは間違いじゃないし、それぐらい簡単に言える。
「……」
簡単なこと。そう思っていたはずなのに、いざクロエの目を見ると俺の口は言葉を忘れてしまったかのように沈黙した。
…クロエの目は真剣そのもので、奴のその真っ直ぐな瞳に見つめられたら、もはやぬけぬけと思ってもないことは言えなかった。
「…ごめん、クロエ。俺、言えない。ごめん……だって俺、ジーンのこと、あんなに好きなのに…」
それ以上は言葉にできず、俺は口を閉ざし俯く。クロエのためにクロエが望むことを言いたかった。でも駄目だ。大好きなジーンのことを好きじゃないなんて、たとえ嘘でも、意味が違っていたとしても言えない。愛だとか友情だとかそんなもの全部すっ飛ばして、俺はジーンのことを好きになっていたのだから。
「兄貴が好きなんて、俺は絶対許さねぇぞ」
「クロエ、それは」
「兄貴とキスするテメーなんか、気持ち悪くて想像したくもない」
「キ、キス!?」
クロエの言葉に、俺の頭の中にはジーンと唇を重ね合う自分の姿が。ジーンを汚してしまったようで悶絶せずにはいられない(厳密に言えばもう経験済みなわけだが)。頭の中の際疾い光景がなかなか消えず頬に熱が集まる。なんだ、なんだこれ! 顔が熱い。いいい嫌だ! おさまれ妄想!
──ああ、嘘だろ。…俺はいたってノーマルで、女の子が好きだったはずなのに……。
「胸くそ悪ィ…。あのデカブツの言った通りじゃねえか」
「え?」
顔を真っ赤にして動揺する俺にクロエは何やら小さく吐き捨てると、俺を押さえつけていた手をゆっくりと下ろす。そして「もういい」という言葉を残し、苛ついた足取りで俺が止める間もなく部屋から出て行ってしまった。
「う、嘘だろ…」
今すぐにでも追いかけて、俺はクロエときちんと話し合うべきなのだと思う。けれど今の俺はそれどころではなかった。心のど真ん中に焼き付けられた衝撃的な感情に驚き、ずるずると地べたにへたり込む。冷めない熱が俺の身体をじわじわと浸食していった。
「………ジーン」
いつからかなんてわからない。けれど間違いでも生半可な気持ちでもなく、俺の一番はジーンだった。俺が今までジーンのためにしてきた事は、思いやりでも恩返しでもなんでもなかったのだ。言うなれば、ただの好意の押し付け。俺は自分でも気づかないうちに、どうしようもないほどジーンに惚れてしまっていた。
いま俺が思うことはただ1つ。ジーンに会いたい。それだけだった。
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