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先憂後楽ブルース
素直になって



その後、俺達は無事に下山し、行きの苦難が嘘のように何事もなく家に帰ることができた。山で熊に出会い気絶し一泊してきたにも関わらず、ちょっと散歩に行って帰ってきました、という軽い感じで玄関の戸を開けると、そこに待っていたのはゼゼの熱い抱擁だった。

「ジーン! リーヤ! おかえりなさい!」

「ゼゼ! ただい…むぐっ」

胸を押し当てられて赤面していた俺の視界に、壁に寄りかかりながらこちらを睨むクロエの姿が。今すぐ怒鳴りつけたいけどゼゼがいるから何も言えねぇ、そんな感じのツラだ。

「ジーンとリーヤの馬鹿! 山で一泊なんて、すっごく心配したんデスからね!」

「ごめんなゼゼ、心配かけて。…あれ、いま家にいるのはゼゼとクロエだけ?」

「イルちゃんは学校デス。イルちゃんもすごく心配してたんデスよ。えっと、エクトルとタビサさんは…」

「ジーン! リーヤ君! 帰ったの!?」

やっとゼゼが離れてくれたと思ったら、今度はタビサさんにジーンごと優しく抱きしめられる。2人とも額にキスをされ、俺にはジーンが必死にすました顔を取り繕っているのがわかった。

「平気そうで良かったよ〜! 迎えに行けなくてごめんね」

「僕は大丈夫です。でもリーヤが僕をかばって怪我をしてしまって」

「それはもういいんだって! こんな傷たいしたことないんだか…ら……」

俺はタビサさんの腕を払いのけ元気であることをアピールしようとしたが、視線の先の人物に気がつき一瞬で思考が停止する。そこにはリビングから顔だけ出すエクトルと彼の父、ラスティさんがいた。

「ま、まさか…」

「お話し合いの、まっ最中デス…」

ゼゼが気まずそうな口調で俺の言いたかったことを代弁してくれる。途端にタビサさんの顔から表情が消えた。当人達によるガチンコ離婚協議中とは、また間の悪いときに帰ってきてしまったものだ。ここはとりあえず挨拶だけはしておこう。

「あーえっと、お久しぶりですラスティさん」

「……君とどこかで会ったかな?」

「あっ」

うわっ、しまった。この人に初めて会ったときはクロエの姿だった。今となっては別に隠すようなことでもないと思うが、説明するのがめんどくさい。俺がてきとうな言い訳を探していると、彼の方から話題を変えてくれた。

「初めまして。君はアウトサイダーのリーヤ垣ノ内君だね。僕はラスティ・ターナー。フォール大で生物学を教えてる。君とは一度ぜひ話がしてみたかったんだ! 君がいる世界のこと、そして君自身について。ああ、アウトサイダーに会えるなんて本当に光栄だよ!」

「は、はぁ」

「父ちゃん」

俺の手を握りぶんぶん振っていたラスティさんが振り向くと、タビサさんとエクトルが白い目をしてこちらを見ていた。我にかえったラスティさんは俺の手を放し、ばつが悪そうに頭を下げる。

「ご、ごめんね2人とも。話を続けようか」

俺達の帰還による感動的な雰囲気は一気に崩れ、空気が凍りつくのが鈍い俺でもわかった。冷たい表情のタビサさんに続いて俯いたラスティさんがすごすごとリビングへ戻っていく。できれば俺はその重い空気の中に入りたくなかったのだが、一応部外者であるはずのゼゼもリビングにへと足を運んだので、俺も皆と同じようにリビングへと向かう他なかった。









離婚の話し合いってのは、間違っても楽しいものじゃない。それが自分の家庭ならば大いに関係あるし深刻にもなれるってものだが、他人の家庭の問題など聞いていても気まずいだけだ。
いつもみんなで楽しい食事をしているテーブルには、むっつり顔のタビサさんとひたすら情けない姿のラスティさん、そしてうんざりした様子のエクトルがついていた。クロエは自分の問題でもあるというのに、興味なさげにドア口によりかかっている。複雑な表情を浮かべたジーンはテーブルのすぐ横に控えていて、俺はといえばゼゼと一緒に部屋のすみで大人しくしていた。

「タ、タビサさん。本当にごめんね。あの…これからは気をつけるから…」

「気をつける、だって?」

ひたすら平謝りのラスティさんにタビサさんの鋭い視線が向けられる。この夫婦の関係性がよくわかる光景だ。俗に言う鬼嫁というやつだろう。夫が尻に敷かれているのが容易に想像できる。

「そうだね、次は妻との結婚記念日を忘れて、他の女と楽しい夜を過ごさないように気をつけたらいいよ。次が“あれば”の話だけど」

「何度も言うけど、彼女はただの助手だよ。それに僕らは仕事をしていただけで…」

「結婚記念日に他の女といたうえに、メールの1つもよこさなかった男が偉そうに。そうだよね、ターナー先生は家族より可愛い助手との仕事が大切なんだもんね、仕方ないよねー」

「…それに関しては、ほんとに、ごめん……」

タビサさんの猫なで声と真っ黒な笑顔が怖い。ラスティさんも元来の気弱な性格もあってか、すっかり縮みあがっている。というかこの人結婚記念日忘れてたのかよ。しかも助手とはいえ他の女の人といたって、怒られても仕方ないレベルだ。

「確かに今回のことは全面的に父ちゃんが悪いけど、母ちゃんだって父ちゃんが仕事にのめり込んだら何もかも忘れる性格だって知ってるだろ? そんな離婚なんて大げさな…」

「ちっとも大げさなんかじゃない! 私との約束忘れるのもうこれで何度目? 誕生日を忘れたこともあったじゃん! もう私あなたにはほとほと愛想がつきたの! 何が何でも離婚してもらうからね!」

そうキッパリと言い切ってテーブルにあった離婚届を再び叩きつけるタビサさん。こりゃあマズい。完全に離婚の意思を固めてしまっている。

タビサさんの離婚宣言の後、しばらく誰も口を開かなかった。けれどやがてラスティさんか重々しい雰囲気のまま、何かを決意したようにタビサさんを見上げた。

「……わかった。君がそこまで言うのなら仕方ない。不本意だけど、籍を抜こう」

「はぁ!? なにいってんだよ父ちゃん!」

おいおいおい何だかとんでもないことになってきたぞ。タビサさんは本気だし、ラスティさんも覚悟決めちゃうし、このままじゃ離婚に向かって一直線だ。頼むから誰か止めてくれ。

「だったらさっさとこれにサインして! 今すぐ!」

完全にキレてしまったタビサさんは離婚届を指差しがなり立てる。エクトルがなんとか止めようとする中、深刻な顔をしたラスティさんが懐からペンを取り出した。この騒動にまったく関心がないクロエを除く誰もが息を呑む。ラスティさんか離婚届にペンを走らせようとしたとき、動いたのはまさかの人物、ジーンだった。
ジーンは皆が見ている前でラスティさんから離婚届をひったくり、あろうことかビリビリに破いたのだ。

「ジ、ジーン…」

「こんなこと馬鹿げてる。ラスティさん、あなたは今までタビサさんの何を見てきたんですか。この人の性格はわかっているでしょう。それとも本気で離婚なさりたかったんですか?」

「え? いや僕は…」

「タビサさんもです。そこまで素直じゃなさすぎると可愛げありませんよ。自分の気持ちは思ってるだけじゃ絶対に伝わらない。本当は、ラスティさんと別れたくないんでしょう」

「………」

えっ、そうなの? と俺はタビサさんの返事を待ったが彼女は何も言わず俯いている。それはすなわち、図星だということだ。

「………だって、しょうがないじゃん。こうでもしないと、ラスは私との時間をつくってもくれないし…」

さっきまでの堂々とした態度が嘘のように、タビサさんはようやくか細い声を出しジーンの啖呵に答えた。てっきり俺は、彼女がラスティさんに嫌気がさしてしまったのだとばかり思っていた。まさか全部ただの強がりだったとは。

「…ラスが、仕事を生きがいにしてることはわかってた。私との結婚も、私がしつこく迫ったから流されたんだって知ってる。だから、私よりも仕事を優先するのも仕方ないことなんだって、ずっと自分に言い聞かせて堪えてきた。…でももし離婚するって言ったら、何もかも放り出して私を引き止めてくれるんじゃないかって思って…それで…」

「そんな! ごめんタビサさん、僕知らなくて…」

「…ううん、いいんだよ。私が勝手にやったことなんだし、ラスの気持ちは十分わかったから」

「わかってないよ!」

ラスティさんは俺が今まで聞いたことのないような大きな声を張り上げ、身を乗り出す。そして肩を落とすタビサさんの手を縋るようにぎゅっと握りしめた。

「僕はタビサさんが好きだよ。流されてなんかいるもんか! タビサさんが好きだから結婚したんだ。もし君の気持ちが僕にあるなら、僕は何があっても離婚なんてしない」

「ラス…」

「何度でも言う。僕は君が好きだ。別れたくない」

その瞬間、タビサさんの瞳から大きな涙の粒がこぼれ落ちた。そしてずっとためてきた想いを溢れさせるかのように泣き続ける。ラスティさんは立ち上がりタビサさんの横に座ると、肩をふるわせる彼女の身体を強く抱きしめた。
彼らは唖然とする俺達──外野そっちのけで、完全に2人の世界を作り上げてしまっていた。


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あきゅろす。
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