先憂後楽ブルース 落ちる ひたすら歩き続けること2時間ちょい。周りを木々に囲まれているため、どれほど登ったかはわからないが、かなりの高さまで来ているのではないかと思う。ジーンは熊の存在を時折気にしながらも、体力があるのか軽い足取りでずんずん頂上を目指していった。むしろ最近運動不足気味だった俺の方が疲労しているぐらいだ。 「リーヤ、そろそろ休憩しよう。水分補給しないとね」 「うん…」 ジーンは言うが早いか近くの岩場に腰をおろし、俺もすぐさまそれにならった。確かに身体を休めることは大事だが、まだ歩き始めて2時間程度。きっと俺に気を使ってくれたのだろう。ジーンの優しさに感謝しながら、俺は用意していたお茶を口に含んだ。 しかし山道をちょっと歩いただけでこの有り様とは。少しは運動をした方がいいかもしれない。 マイナスイオンを浴びながらのんびり休憩していると、俺達の周りにハチらしき虫がぶんぶんと飛んできた。虫に嫌な思い出しかない俺はついつい顔をしかめてしまう。まだその存在に気づいていないジーンに、俺は警告しようと彼の後方を指差した。 「ジーン危ない、後ろに…」 「うわぁああ!」 突然、叫び声をあげ飛びついてくるジーンに俺は硬直した。どうやらいきなりの虫の襲来に、柄にもなく驚いたようだ。 「ジーン、ただの虫だよ。もういないから大丈夫」 「う、うん…」 心底ほっとしたような顔で俺から離れていくジーン。けれどそれはすぐに沈んだ浮かない表情に変わった。 「うわああって言っちゃった…」 ジーンは俺から視線を逸らし物凄く恥ずかしそうに両手で顔を挟み俯く。確かに男としてはけしてカッコいいとはいえない言動だったが、俺としては実に微笑ましい光景だったのだが。 「気にする必要ないよジーン、俺しかいないんだから」 「今のはさすがにないよ…。あーヤバい。リーヤといると油断する」 頭を抱えて悶絶するジーンを見て1人和む俺。自分よりデカい男に言うべきではないが、なんか…可愛いすぎる。 「ジーン、もう休憩は終わりにして行こう。あんまりぐだぐだしてたら夜になっちゃう」 「いいの?」 「うん!」 少し足を止めて水分補給をしただけだが、早々に体力を取り戻すことができた。軽く関節をのばしてから俺はジーンと2人、再び頂上を目指して歩き出した。 身も凍るような体験をしたのは、そのすぐ後のことだ。 ゴールを目前に、相変わらずたわいない会話を繰り返しながら歩いていた俺達だが、にこにこと笑っていたジーンの表情が突然引きつった。 「ジーン、どした?」 「ま、前…」 「前?」 ジーンが指差した方向に目を凝らすと、10メートルほど先に茶色いかたまりがうずくまっていた。その正体がわかった瞬間、俺の心臓は鷲掴みにされたように縮みあがった。 「く…熊!」 俺が悲鳴に近い声をあげるのと、熊が立ち上がるのは同時だった。俺もジーンもしばらく微動だにできなかった。 「…まさか、ほんとに出くわすとは。ジーン、絶対動くなよ」 野生の熊をここまで間近に見たのは当然ながら初めての経験だ。だが対処法をまったく知らないわけじゃない。 「ジーン、そのままゆっくりかがんで。逃げちゃダメだからな」 わずかに見える熊の顔は厳つく、図体もデカかった。パンダのような可愛らしさのかけらもない。ジーンが気絶しそうになった気持ちもわかる。 …ん? 気絶? 「ジーン、早くかがんで…」 服の裾をつかんでも反応はなく、恐る恐る様子をうかがうとジーンの顔はまるで死人のようになっていた。心なしか彼の足が少しずつ後退しているような気がする。これはまずい。 「逃げちゃダメだ! 逃げたら追ってくる! ジーン!」 俺の言葉は聞こえているのかいないのか、ジーンは熊のいる前方しか見ようとしない。腰を下ろしかけていた俺は慌てて立ち上がりジーンの腕をがっちり掴んだ。 「ジーン! 返事しろって!」 俺はなんとか彼の意識をこちらに向けようとしたが、最悪なことにその騒ぎを熊が聞きつけた。熊は、ただじっとこちらを凝視している。けれどやがて何を思ったのか、ゆっくりこちらに歩み寄ってきた。まるで獲物を狙うかのような瞳をして。 「マズいっ! …ってジーン!?」 目がうつろになったかと思うと、ジーンの身体から力が抜けた。そしてそのままふらふらと後ろに倒れていく。その瞬間、ジーンの足元に道が続いていないことに気づいた俺は、慌ててその身体にしがみついた。 「危ない!」 俺の声は彼には届かない。最悪な結果を予想してぞっとした。まさか本当にジーンが気絶してしまうなんて! けれど彼をこの山に連れてきたのはこの俺だ。彼を守り、安全に家まで連れて帰る義務がある。俺はとっさにジーンの身体を抱き込み、気づいたときには足を踏み外した彼と共に、草木と土の上を転げ落ちていった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |