先憂後楽ブルース
男好き女好き
しばらくの間トイレのドアにすがりついていたイルだが、それが無駄だとわかるとイラついた様子でリビングに戻ってきた。暑苦しそうな赤い髪をゴムで束ね、ソファーに座り目の前の俺をじとっと睨みつけてくる。
「ちっ、ああなったらアイツ当分でてこねーぞ。どうすんだよ」
「…自業自得じゃないのか?」
「うるせぇっ」
ちょっと勇気を出して本音を口にすると俺の顔にクッションが飛んできた。今のイルは言葉づかいも見た目も男だったが、それでもあまり違和感はない。この荒っぽい行動は…いつものことだ。
「イルって、そっちが素なのか? 女言葉の方が素だと思ってたけど」
「何言ってんだリーヤ。言葉遣いがどーだろーと、どっちも俺だよ。まあ女装してるときはよく女言葉になっちまうけど」
「へぇ…」
「あと俺の男言葉は乱暴だって、ゼゼが言うから」
むすっとした顔でイルは自分の長い髪をいじっている。イルはゼゼに拒否されて相当落ち込んでいるようだ。今の今まで罵っていた例の彼のことはどこかに飛んでいってしまったのだろうか。
「あの、もしかしてイルはゼゼが好きなの?男の人が好きなんじゃ…」
「別に、俺はどっちもいける」
「ど、どっちも?」
まさかのカミングアウトに驚く俺を見て、イルは面倒くさそうにしながらも説明してくれた。
「そんな驚くことないだろ。バイなんて、異性愛者と同じくらいいる。珍しくもなんともない」
「ほんとに?」
確かに、言われてみると同姓婚が普通なのであれば、それぐらい人数がいてもおかしくはない。…これが文化の違いというやつなのだろうか。
「俺の友達の半分がバイだぞ。身近な奴でいうなら、クロエ…は知らねえけど、多分奴は人間をそんな風に見たことないんだろう。ああ、ジーンは女好きだな絶対。本人に確かめたことはねえが」
「えっ、じゃあ何でわかるの」
ジーンの話をまとめてみると、彼は小学生の時以来ずっとタビサさんに片思いしているはずだ。その間、誰とも付き合ってないのだとしたら女が好きとか断定できないんじゃないだろうか。
「素振りみてりゃわかるよ。ジーンは女しか好きにならない。俺は10分も話せば相手の性癖がわかるからな。自慢じゃないが、はずれたことは一度もない」
特技としてそれはどうなんだと思わなくもないが、そんなことよりも今はイルがゼゼのことをどう思っているのかが気になる。好きなのか、好きじゃないのか。
「で、結局イルはゼゼのことどう思ってるわけ?」
ストレートに聞いてみると、イルは不機嫌そうな顔を赤らめて男らしく答えてくれた。
「…ゼゼは好きだ。可愛いしな。でも恋愛感情を持つことはない」
「? どうして?」
きっぱりと言い切るイルに俺が訊ねると、イルは何を今更そんなことを、と言わんばかりの表情になった。
「何で何でうるせぇな。当たり前だろ。あいつはもう結婚してる」
「結婚!?」
それは嘘だろ!? と突っ込みかけた俺だが、ゼゼが20歳だったことを思い出し、結婚しててもおかしくない年だということに気がついた。けれどにわかには信じがたいし、なんとなくショックだ。
「指輪してんの見たことないか? 手に」
「指輪って…あ、そういえば。あれって結婚指輪だったのか? 左手の薬指じゃなかったぞ」
「あいつの国では小指につけるんだよ」
「ああ、なるほど。てか俺、相手の男の人見たことないんだけど」
「日本に亡命するときにはぐれたらしい。行方知れずなんだよ。それ以来ゼゼの奴、ずっと旦那を捜してる」
「なんだって?」
以前、ゼゼが探し物をしているという話を聞いたことがある。でもそれがまさか彼女の夫だったなんて。
「おい、お前何で涙目なんだ」
「だ、だって、亡命中に行方不明になったんだろ。もしかしたら、もう…」
「生きてるよ」
イルの自信たっぷりな言葉に、俺は情けなく崩れた顔を上げた。ゼゼの気持ちを考えると、全然関係ないはずの俺が今にも泣いてしまいそうだった。
「ゼゼが言ってた。あの人は生きてる。自分にはそれがわかるから、いつか会えるま日でずっと捜すんだ、って」
「……」
「生きてることも、また会えることも確信してるみたいだったな。だからアイツが泣いてる顔、一度も見たことねえよ」
「…そっか」
熱くなった目頭と顔を引き締めた。ゼゼが悲しんでいないなら、俺が泣くのはおかしいことだ。
「まあ、詳しく知りたいんだったらゼゼに直接きいてみれば?」
「えっ、いや、それはさすがに」
「あいつ、夫の話するの好きなんだよ。馴れ初めから結婚するまでの過程を、喜んでおしえてくれんぜ。まあ一度話し出すと止まらないから、誰もその話題ふらねえけど」
「へー…」
以前ゼゼがイルのことを熱心に話してくれたときのように、か。それなら想像できる気がするが、ゼゼが結婚していることはやっぱり信じられない。いつも幼さの残る天真爛漫なところばかり見ているせいだろう。
ゼゼの話をした後、イルはしんみりした表情でしばらく黙り込んでいた。けれどやがて膝を抱え込みながら、ぽつりぽつりとこぼしだした。
「…1人の人をずっと愛していられるゼゼが羨ましい。あたしは逃げて、逃げられてばっかだし」
「イル…」
女言葉に戻ったイルは、しょげた顔で本音をもらす。俺がかける言葉を探していると、イルは突然自分の頬を2回叩いて、すくっと立ち上がり拳を振り上げた。
「もーっ! 悩むのやめやめ! あたしもゼゼみたいに、一生好きでいられる人見つける! あんなカス男、別れて正確よ!」
「お、おおっ」
早急に失恋のショックから立ち直ったイルの、その力強さに圧倒される。そんな俺の目の前にしゃがみ込んだイルは、俺に今まで見せたことのないような優しげな笑みを向けた。
「ありがと、リーヤ。ちょっと元気出た」
「俺、特に何もしてないけど…」
「話聞いてくれただけでいいの。あたし交友関係広いけど、こういう相談できる友達はゼゼぐらいしかいないし」
そういえばゼゼどうしよう! とイルは彼女が閉じこもっているトイレへ再び走っていく。俺はといえば今のイルの言葉が嬉しくて、しばらくの間放心状態だった。
話を聞いてくれるだけでいい。イルはそう言った。
ジーンをハイキング誘ったのは気分転換にでもなればと思ったからなのだが、もし彼もイルと同じなら明日俺から話を聞いてみてもいいかもしれない。
「…よし!」
自分に何ができるかわからないが、ジーンには絶対元気を出してもらえるようにしよう。そう心に決めた俺は気合いを入れ直し、明日の準備にとりかかるため立ち上がった。
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