先憂後楽ブルース
恋の大荒れ注意報
俺が思いついた傷心のジーンを慰める方法、それはズバリ山歩きだ。何でわざわざそんなことを、と思う人もいるだろうが自分自身が失恋したとき、部活動での登山にはたいへん癒やされた。頂上に到達したときには、ほとんどすべてが吹っ切れていたと思う。
思い立ったが吉日。俺は山を登ったことがないというジーンに、ハイキングのための道具一式が家にあるかどうかを訊ねた。目的地はジーンが中学のとき行き損ねた山にするつもりなので、そこまで本格的な装備はいらないだろう。家の中をあさっても特に足りないものはなく、俺はジーンと共に明日のお弁当の材料を買いに行った。
「ほんとに、今日は帰らないつもりなのか?」
買い出し後、俺を玄関まで送り届けたジーンは頑なに家の中に入ろうとしなかった。元から友達の家に泊まるつもりで、着替えなどを用意し持ち歩いていたようだ。
「ああ。もう今日行くって向こうに連絡入れてあるし。明日、朝一番に帰ってくるから」
「そんなに早くなくても大丈夫だと思う。弁当、俺じゃ米を炊くぐらいしか出来なさそうだし」
「手伝おうか?」
「いや、大丈夫」
ジーンはきっと俺より料理が出来るだろうし任せた方がいいぐらいなのだが、俺自身がとびきりの弁当を作ってジーンを驚かせたい。それにはゼゼに手取り足取り指導してもらう必要があるだろうが。
「じゃあ、リーヤ。明日楽しみにしてるよ」
「うん、また明日」
ジーンを見送った後、俺は頭の中で細かい計画をねっていた。ハイキングなんて久しぶりだ。今日じゅうにインターネットで登山予定の山について調べておこう。もはやジーンのためとは言えないほど、俺は明日が来ることを楽しみにしていた。
「えっと、持ってくのはタオルと、軍手と、ゴミ袋と…」
登山グッズのおさらいをしながらリビングに入ったため、俺は部屋の異変にすぐには気づかなかった。テーブルには俺のための昼ご飯が用意されているが、キッチンや居間のどこにもゼゼやタビサさんの姿はなく、誰もいないかのように見えた。だが、
「うわっ、誰!?」
部屋の隅っこにちっこい人影が、膝を抱えてうずくまっている。そいつは俺の言葉に反応し、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
「…シズニ?」
体格と髪の色を見ての推測だったが、雰囲気は確かに前に会ったことのあるイルの弟そのものだ。弟らしきその男は俺を愛想のない顔で睨みつけてた。
「なんだ、リーヤか…」
「えっ、ってその声、まさかイル!?」
男物の服を着ていたのでわからなかったが、この声は間違いなくイルだ。すっぴん姿を見たのは初めてだが、こうしてみると普通に男だ。体格はかなり華奢だが。
「イル、どうしたの? こんなとこで…、そんな姿で」
「うるさい! こんな姿で悪い!?」
「わ、悪くないけど」
相当不機嫌らしいイルがさらに深くふさぎ込んでしまう。俺、何かまずいこと言っただろうか。
「あたしのことはもうほっといて! 1人にしてよ!」
「で、でも俺今から台所使わなきゃいけないし、1人になりたいならイルはどうしてここにいるの?」
「……っ」
1人になるなら、もっといい場所が他にあるはずだ。ここにはいつ誰が入ってきてもおかしくないのに。本当は誰かに傍にいて欲しいんじゃないだろうか。
「俺で良かったら、話聞くよ」
「あ、あんたじゃなくて、ゼゼに慰めてもらいに来たの! でもゼゼいないし、誰もいないし…」
そう言ってイルはまたしても自分の殻に閉じこもろうとするが、今ので彼女の本音がわかってしまった。やはり今、1人にはなりたくないのだろう。
「ゼゼ、どこに行っちゃったのかわかんないけど、多分買い物じゃないかな。すぐ帰ってくると思う。俺、それまで廊下で待ってようか?」
「えっ」
きょとんとしたイルの顔。弟に似ているが、イルの方が化粧後の名残のある中性的な顔だ。彼女はまさか俺が本当に出て行くと思わなかったのか、潤んだ目で俺の顔をまじまじと凝視していた。
「イル、何があったんだ」
「……」
「今日は確か、デートに行ってたんじゃ…」
その言葉が引き金となって、イルがじわじわと泣き始めた。いつも強気のイルの涙に俺は情けないことにビビりまくってしまった。
「イ、イル…」
「行ったわよ、デートに! この格好でね! そしたらアイツ、女の姿してなきゃ嫌だって! このままじゃ、一緒に歩きたくないって抜かしやがったのよ!」
まるで小さな子供のようにわんわん泣き叫ぶイル。恋人が言ったというその暴言の内容に、当事者ではない俺も少なからずショックを受けていた。人を好きになるって、すごく大変なことだ。最近は恋愛とは無縁の生活を送っていたから、なんだか恋愛に関しての感情に疎くなってしまっている。
「本命だったから、そのまんまの姿で会いに行ったのに……。あんな奴、嫌いよ! 大嫌い! 死ね! 死んじゃえ!」
こういう時、俺はどうすればいいのだろう。ヒステリックになっているイルをなんとか落ち着かせたい。だが肩を撫でようとした手は宙で止まってしまう。俺に触られるの嫌じゃないかな、なんてことをつい考えてしまうのだ。
「…なに、その手」
「あっ、ごめん」
イルは俺の不自然に止まった手を睨んでいた。慌てて引っ込めようとすると、イルは今度は俺に睨みをきかせてきた。
「男なら、撫でるか抱きしめるか、どっちかしなさいよ」
「……えっ、あっ、うん!」
そう言われた後も俺はなかなか行動に移せなかった。けれどイルの真っ赤な顔がちらりと見えた瞬間、気がつくと俺は脇目も振らずその華奢な身体を思いっきり抱きしめていた。
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