先憂後楽ブルース
安全祈願
案の定というか予想通りというか、朝目覚めるとクロエは俺をがっちり抱き込んでいた。俺はクロエを起こさないように腕の中から抜け出そうとしたが、クロエの奴ときたらまったく腕の力を緩める気配がない。
「……やっぱり寒いんじゃん」
俺は逃げ出すのを諦め、壁にかかった時計を見ようと目をこらした。時間は8時5分前。確か集合は9時のはずだ。これは早くクロエを起こした方がいいかもしれない。
俺が再びくっつこうとする瞼を離すため瞬きしていた時、部屋のドアが唐突に開いた。
「おはよう2人とも!」
「うわあああ!」
いきなり飛び込んできたジーンに驚いた俺は、すぐさまクロエを乱暴に突き飛ばす。だがその反動で俺の身体はベッドからずり落ちてしまった。
「…なにしてるの、リーヤ」
「いや、あの、……おはようジーン」
俺が突き飛ばしたせいで、クロエが朧気ながら目を覚ました。床に転がる俺とイルの家に泊まったはずのジーンの姿を見て、クロエは一気に覚醒した。
「なにしてんだ、おめぇ」
特に視線はどちらにも向けられていなかったため、俺とジーンのどちらに対して言っているのかはわからない。俺が黙っていると、ジーンがちょっと困った顔で答えた。
「絶対クロエが寝坊してるってカマが言い張るから、わざわざ迎えにきてやったんだよ。自分が今日からレジに参加するーって言いだしといて、遅刻なんかしちゃ駄目だぞクロエ」
「えっ…ちょ、もう8時じゃねえか! 信じらんねえ!」
クロエが転がるようにベッドから這い出し、慌ててジーンの部屋から飛び出す。きっと自分の部屋に向かったのだろう。
俺が床にへたり込んだまま放心していると、ジーンの後ろから髪型も化粧もバッチリなタビサさんが顔を出した。
「あれ、何かあったの?」
「クロエが寝坊しただけですよ。タビサさんも起こしてくれれば良かったのに」
「だって、レジスタンスなんて危ないことやらせたくないんだもん。エクトルなんてまだあんなに小さいのに」
「ああ見えてエクトルはませてるから、僕らよりずっとしっかりしてますよ。じゃあ僕、エクトルの方を起こしてきますから」
ジーンはそう言い残してエクトルの部屋へ向かってしまった。タビサさんと2人きりになんてしないでくれ! と俺は内心焦ったが、彼女はかなりフレンドリーな態度で話しかけてきた。
「おはよう、リーヤ君。私とちゃんと話すのは初めてだね」
「おはようございます。タビサ、さん…」
「名前覚えてくれたの? ありがとね。実はおばさん、リーヤ君にお願いがあるんだ」
見れば見るほどクロエにそっくりなタビサさんは、人懐っこそうな顔をしてポケットから何かを取り出し俺に手渡した。
「お守り?」
「そう、これをクロエにわたして。こっそり服に忍ばせてくれたらいいから。私が渡しても受け取ってくれないだろうし、近づかせてももらえないし。ね、お願い」
「それはいいですけど…」
「ありがとう! あの子のバイク、7月に入る前のレジで故障したんだよ。なのにやめろって言っても全然聞かないし、もうこうするぐらいしか。若い子のすることは全然わかんないなー」
タビサさんがそう言ってちょっと悲しそうに笑ったその時、ドタドタとうるさい足音が聞こえ、黒のジャケットとジーンズ、そして派手なアニマル柄のシャツに着がえたクロエが姿を現した。なんという早業。
「なにしてんだリーヤ! お前もさっさと着替えろ!」
「…え、だから俺は行かないってば」
「馬鹿言え! チームの一員なら参加するのが当然だ」
「ちょっとクロエ、無理強いは駄目だって」
タビサさんからの思わぬ助け舟に、クロエとまともに対峙できる気がしなかった俺はほっとした。己だけでは、きっと前回の時のように無理やりレジへと引っ張られてしまうに違いない。
「ばばあの出る幕じゃねえんだよ。すっこんでな」
「クロエ、アンタあんまり調子に乗ってると痛い目見せるよ」
まさに一触即発の瞬間、暴れる弟を引きずったジーンがタイミング良く戻ってきてくれた。
「クロエ、エクトル連れてきたよ。まだ駄々こねてるけど」
「あぁ? …ったくどいつもこいつも、反抗期かってんだ」
1番の反抗期であろう自分を棚に上げて、クロエは弟を睨みつける。ジーンの言うとおり、エクトルは今もジーンの腕の中で暴れまくっていた。
「やだやだやだ! レジなんて絶対行かない! 死んでも行かない!」
エクトルの頑なな拒絶に、クロエは苛つきジーンはまたかとため息をついている。タビサさんだけがなぜかやけに嬉しそうだった。
「そうだよエクトル、レジなんてやめやめ! 今日はママとお買い物するんだもんねー?」
「やっぱり俺行く」
「な、なんでっ」
エクトルの唐突な変わりようにショックを受けるタビサさん。クロエはいい気味、とばかりに口角を上げた。
「さっさと行くぞ、歩けエクトル。お前はそのままの格好でいい」
「エクトルが行くなら私も行くよ! 心配だもん!」
「はあ!? 親同伴なんてありえねーっつの。リーヤ、てめえもぼさっと突っ立ってねえでさっさと準備しろ!」
「だから、俺は行かないんだって」
「あ゛ぁあ?」
「まあまあまあ。クロエ、落ち着いて」
俺に凄みをきかせるクロエを、救いの天使ジーンがなだめてくれた。こういうときのクロエは、まだ少し恐い。
「リーヤは僕が説得するよ。クロエは早く行かないとマズいんじゃないかな。リーダーが遅刻なんて、きっとカマ怒るよ」
「う……わかったよ。行けばいいんだろ」
最凶クロエにも恐いものがあった。確かにキレたときのイルは小さいのにとんでもない迫力がある。
玄関に向かおうとするクロエを見て、先ほど頼まれ事を思い出した俺はその背中を呼び止めた。
「待ってクロエ!」
「? なんだよ」
「えっ、と」
声をかけたはいいが、何をどう話せばいいかわからない。タビサさんからもらったお守りをわたすだけなのだが、母親からだと言えばクロエは受け取らないだろう。かといって自分からだと嘘をつくわけにもいかない。いや、どうしたものか。
「クロエ、目ぇつぶって」
「なんで?」
「いいから早く」
渋々ながらも瞼を落としてくれるクロエの身体を、俺は思い切り抱きしめた。そして驚いたクロエが反応する前に、ポケットへこっそりお守りを忍ばせた。
「なっ、なにしてんだお前…っ」
急に抱きついてきた俺を変な目で見るクロエ。当然だ。だが他にいい方法が思いつかなかったのだから仕方ない。
「いや、あの……お、おまじない」
「オマジナイ?」
「そう、おまじない! 俺のいた世界では、抱きしめるのは安全祈願の意味があるんだ! クロエ、この前バイクが故障してたし心配で。急にごめんな」
「いや…別にいいけど。でももう事故なんて起きないぜ。エクトルにメンテ任せるのはやめたからな」
「そ、そっか」
お礼のつもりなのか俺の頭をぐりぐりとなでたクロエは、上機嫌でエクトルの腕をつかみ家を出て行った。良かった、単純で。
「ありがとう」
クロエの後を追うタビサさんは、去り際に俺に小さく日本語で礼を言った。…やっぱり、タビサさんはクロエのこと嫌ってなんかいない。クロエがそう思い込んでるだけで。あの2人は大丈夫だ。重視すべき問題は……
「…リーヤ、何考え込んでるの?」
またしても何かしらの理由をつけてタビサさんから離れた、この人。俺の目の前でのんきに笑っているジーンの方だ。
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