先憂後楽ブルース
一難去って、また一難
中身が入れ替わってしまうという恐怖の病気を乗り越えた俺は、家についてからも解放感を抑えきれなかった。生きてるって素晴らしい。自分が自分であることが素晴らしい。たとえゼゼに変な目で見られていたとしても気にならない。俺は他人になりすます生活から解き放たれたのだ。
いま唯一俺の気持ちがわかるであろうクロエとこの喜びを分かち合おうとするも、奴はハンモックを持ってさっさと部屋に戻ってしまった。眠いのはわかるが、あまりにあっさりしすぎじゃないのか。もしかしてこんなにテンション上がってるのって、俺だけ?
ゼゼもゼゼで家に到着すると、すぐさまコップに入れた水を持ってジーンの部屋に飛んでいってしまう。なんとなく釈然としない俺の横にいるのはエクトルだ。めずらしく部屋から出てきていた彼は退屈そうに椅子に座りながら、なにやら分厚い本をパラパラとめくってた。
「なんだよエクトル、俺がいるのに本ばっか見ちゃってさ。俺ともっと話そうぜ!」
我ながら異常なテンションだとは思うが、今はこの行き場のない高揚感を誰かにぶつけたくて仕方がなかった。たとえ相手が何も知らないエクトルだとしても。
「朝から何そのノリ。何かいいことでもあったのかよ」
「あ、わかる? いいことっていうかさ、安心? 解放感? そんな感じの幸せに俺は今ひたってるわけ」
「ああ、元の身体に戻れたのか」
「そうなんだよ〜、やっぱなんだかんだ言って自分の──」
………え。
こいつ今なんて言った。
なんでなんでっ、なんでエクトルが知ってんだ!?
「まさかお前…クロエと俺の中身が違うって気づいてたのか!?」
「いや確信はなかった。…へぇ、やっぱり入れ替わってたんだ」
「……!」
衝撃の事実に俺はすっかり慌てふためいていたが、エクトルはいたって普通の反応だ。何でわかったんだ! とショックを受ける俺を見て、エクトルはめんどくさそうにため息をついた。
「だって昨日の兄ちゃん、別人だったんだもん。俺の父ちゃんのこと知らなかったし、誰でも気づくよ」
「誰でも!? ってかわかってたんなら、何で言わなかったんだよ! 俺1人でバカみたいじゃん!」
「いや、言ったらまずいだろ。この病気」
そう言ってエクトルは読んでいた本のページをピラピラさせる。よく見たらこの本、昨夜俺が気を紛らわそうとして読んでいたクロエの医学書だった。急性入れ替わり病について書かれている本だ。ここに置きっぱなしだったのか。
「…俺、エクトルが友達で良かった…!」
「ああ、ありがと」
俺のテンションに反比例するかのようなドライな反応が気にはなるが、エクトルがこの病気の内実を知っていたことには深く感謝しなければならない。俺は自分でも知らないうちに、かなりギリギリの線をわたっていたのだ。
「それよりこのキモい人形捨ててきて。どっから拾ってきたんだよ」
「あっ、ドロシーちゃん!」
夜のお供にしていたクロエのまじない人形、ドロシーちゃん。エクトルに邪険にされた彼女を俺は優しく抱き込んだ。最初こそ気味が悪かったものの、今ではすっかり愛着がわいてしまった。ドロシーちゃんには俺の悩みをたくさん聞いてもらったのだ。まあ主に昨夜のジーンの件だが。
「あのさぁ、エクトル」
「んー?」
「タビサって人、知ってる?」
特に他意はなかった。いや、そう言い切ると語弊があるかもしれないが、深い意味はなかったのだ。ジーンとタビサさんに関して、エクトルから聞きだせたらと思ったのは事実だが、あくまで差し支えなければの話だ。もしかしたら意外となんでもないことかもしれない。それはそれでいい。俺の悩みも解決する。
けれど、俺の言葉を聞いたエクトルの反応は意外なものだった。
「何で、その名前…」
「エ、エクトル…?」
「誰から聞いた」
エクトルは眉間に皺を寄せ俺を睨みつけてくる。もしかしてこの名前、エクトルには禁句だったのか?
「誰からって訊いてんだけど!」
「…ジ、ジーン」
「はぁ!?」
怒ったエクトルに免疫のない俺は、つい馬鹿正直にジーンの名前を出してしまう。だがエクトルの怒りがおさまることはなく、それどころかさらに増強した。
「いつ! どういう状況で!」
「えっ…昨日、寝言で…」
「寝言!? …ッ、くそっ、あの野郎!」
有り得ないほどキレたエクトルは、あろうことかジーンをあの野郎呼ばわり。ついには椅子から立ち上がり、イライラと落ち着かない様子で部屋の中を歩き回り始めた。
「その人、いったい誰なんだ?」
怒るエクトルは怖かったものの、好奇心には勝てない俺。足を止めたエクトルは、険しい表情のまま吐き捨てるように答えた。
「母親だよ」
「…え?」
硬直する俺を見て、エクトルがもう一度口を開く。その目からは苛立ちが感じ取れた。
「タビサは、俺の母親の名前だ」
まだ蒸し暑い、9月上旬。
嵐の予感がした。
第3話 完
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