先憂後楽ブルース 届かないSOS 俺の唯一の幸運は、クロエの足がとてつもなく速く、そして恐ろしいほどに体力があったことだ。おかげで地下を無我夢中で走り抜けた俺は、いつの間にか後ろを追ってきていたはずの3人を撒いていた。 「はぁ…はぁ…、マジで九死に一生…」 本当に近くに奴らがいないかどうか確かめるため辺りを見回す。ここは大きな道路のある比較的賑わった場所だが、当然ながらまったくの知らない土地だ。全力疾走していた俺に対して周囲の視線が痛いが、そんなことを気にしている場合ではない。いま、俺がどうしても解決すべき大きな問題が1つある。 ずばり、ジーン宅への帰り方だ。 一心不乱に逃げまくったものだから、現在地などまったく把握していない。要するに家までの道がわからないのだ。 俺どうしよう、どうやって帰ろう。前回迷った時はクロエが助けてくれたけど今その望みは限りなく薄い。誰かに道を尋ねようにもクロエに教えてくれる人なんているのだろうか。だいたい自分の家までの道のりを他人に訊くってどうなんだ。 とりあえずこの状況を打破するアイディアを考えるために人目につかない場所を探す。てきとうな店の駐車場を見つけそこの車止めに腰を下ろした瞬間、ジーンズのポケットの中に何かがあることに気がついた。一体なんだろうと取り出してみると、それは黒くて薄いクロエの携帯電話だった。 「………」 それを見つめながら数秒間考えたのち、俺はすぐさまクロエの携帯を開きアドレス帳を呼び出す。登録件数の少ないそこからイルカ・カマリーの名を見つけ慌てて発信ボタンを押した。 俺が思いついた計画はこうだ。まず、彼女にやっぱり遊びに行く気になったと言って近くにある店の名前を伝えここまで来てもらう。そしていったん家に帰ろうぜと提案し、さりげなくイルについていき家まで送り届けてもらう。イルには悪いが、一瞬で考えたにしてはなかなかの作戦だ。これならきっと上手くいくはず。 しかしここで問題が起きた。かけてもかけてもイルが電話に出ないのだ。 もしかして彼女はいま携帯の側にいないのだろうか。それともコール音が聞こえないとか。どちらも充分有り得る話だし、珍しいことでもないだろう。だがもし先ほどのことでわざと電話を無視しているのだったら、いくら待ってもイルにはつながらない。八方塞がり、俺はここで立ち往生だ。 ずいぶん悩んだ末、俺はイルを諦めジーンに電話をかけることにした。ジーンは用事があって出かけたのだからここに来てくれる保証はないのだが、一応トライしてみても悪くはないだろう。ああ見えてお兄ちゃんは意外と世話焼きらしいから弟のために一肌脱いでくれるかも。鋭いジーンに対抗出来る言い訳は今のところ持ち合わせていないが、今日のジーンは抜けてるから大丈夫…だと思う。俺は再び発信ボタンを押した。 しかし数回のコールの後、聞こえてきたのは機械の女の人の声。ジーンは電波の届かない場所にいるか電源を切ってしまっているらしい。 「くそー…、どうすりゃいいんだ」 他に誰かいないか、とアドレス帳を模索するも登録件数の少ないこと! めぼしい名前がない、ない、ない。あるのは学校と病院と行きつけらしい店の番号だけだ。友達少ないのも考えものだなホント。 そんな使えない電話番号達の中、俺は1つの希望を見つけた。 その名も、“自宅”だ。 いま自宅には確実に、引きこもりのエクトルがいる。エクトルが電話に出て、なおかつ兄のためにここまで迎えに来てくれる可能性は限りなくゼロに等しいが、俺はどんな大嘘をついてでもエクトルをここに呼び寄せなければならなかった。先程の男達に見つかればただじゃすまないだろうし、他のクロエに恨みを持つ連中に出会わないとも限らないのだ。エクトルだって鬼じゃない、妊婦に怪我させてしまったとでも言えば来ないわけにもいかないだろう。なんか詐欺師の常套句みたいだが、電話越しとはいえ兄の声を聞き間違えはしないはずだ。それにもしかしたらゼゼが家に来ているかもしれない。すべての期待をかけて俺は自宅に電話をかけた。 だが案の定というか何というか、エクトルは電話に出ない。けれど家にいるのはわかっている。俺は諦めずに何度も何度もかけ直した。 20回はとうに過ぎたであろう呼び出しの後、ようやくエクトルが受話器を上げた。 『…もしもし、ダラーです』 「あ、エクトル? 俺だよ俺、お前の兄ちゃん!』 エクトルの声にはいつにも増してさらに不機嫌さが現れている。何十回と電話の音が鳴り響き相当うんざりしているのだろう。 「いや実はさ、出かけ先で人に怪我させちまって…あ、もちろんわざとじゃねえぜ? たいしたことねえと思うんだけどその人妊婦さんで、一応病院連れて行きたいからお前今から──」 『……ただいま留守にしております。ピーという発振音が鳴りましたらメッセージをお願いします』 「エ、エクトル…?」 『ぴーー』 ブチッ! ツー、ツー、ツー 「…………」 あ、あ、あんの野郎、電話切りやがった…!! 俺と妊婦さんを見捨てるつもりか!? 信じらんねえ! 鬼だ! すでに通じていない携帯を握り締めながら絶望と憤慨を同時に感じていた時、驚くべきことが起こった。 「クロエ君…?」 駐車場沿いの道から、今までの柄の悪い若い男ではない、大人の男性から声をかけられたのだ。 [*前へ][次へ#] [戻る] |