先憂後楽ブルース
009
照明によって照らされた窓も何もない廊下を、リーヤは一心不乱に駆け抜けた。すれ違う人々は全力疾走するリーヤを見て一様に不思議そうな表情を浮かべていたが、そんなことにいちいちかまっていられないほど動揺していた。
ダヴィット──あの男の話はむちゃくちゃだ。垣ノ内リーヤはホモで王子の婚約者だなんて、もしこれがすべて事実なら自分の今までの人生は波乱に満ちていたに違いない。そもそもなぜ記憶を失うことになったのか、その理由さえわからないのだ。だいたい自分の親はどうした。この外見なら普通まだ健在だろうに。なぜ今、側にいない。
…ああ、自分の経歴を知ることに、ここまで恐怖を感じるなんて。
孤独感を振り払うかのように走り続けていたリーヤは、前も見ず、ろくに減速もしなかったせいで曲がり角で人とぶつかってしまった。
「うあ!」
「あっ」
幸いにも派手に転んだのはリーヤだけで、被害を被った相手はきちんと2本足で立っている。声からして女性だと判断したリーヤは、床にぶつけた肩の痛みに堪えながら上半身を起こし、急いで謝ろうとしてそのまま動けなくなった。
「申し訳ありません、リーヤ様。怪我はありませんか?」
気の強そうなつり目に、分厚い唇。ノンフレームの眼鏡に輝く金髪。まさに自分の理想ともよべる女性が、目の前にひざを突いてこちらの様子をうかがっている。ただ美人なだけならここまで圧倒されることもなかっただろうが、彼女は好みの顔そのもので一瞬にしてリーヤの思考機能を停止させてしまった。しかもその金髪美女は被害者にもかかわらず、リーヤに手をさしのべ丁寧に謝罪したのだ。
けれど不思議なことに彼女の声や顔つきに感情の色はなく、本当に心配してくれているのだろうかと疑いたくなるほど無表情だった。そしてその冷たい目が、リーヤの思考をさらに奪う原因となった。
「リーヤ様?」
「な、なんでもないです。…こちらこそすみません」
いやにしおらしいリーヤの態度に、その金髪美女──ダーリン・ゾルゲは異変を察したが、もちろん顔には出さなかった。彼が無事ならすぐにでも執務に戻りたかったが、リーヤがなかなか立ち上がろうとしない。そればかりかずっとダーリンの顔を見ている。無意味な沈黙に堪えられなかった彼女は社交辞令としてリーヤに話題をふった。
「リーヤ様、殿下と仲直りはされましたか?」
「えっ…?」
「今朝方、話していたじゃないですか。殿下に謝りたい、と」
思わぬダーリンの言葉にリーヤの頭の中は様々な考えが駆け巡る。恐らく、彼女は自分が記憶を失ったことを知らない。そして殿下というのはダヴィットと名乗った男のことだろう。彼は本当の王子様だったのだろうか。
「どうして俺はダヴィットに謝ろうとしてたんですか?」
「……………リーヤ様、やはり医務室に行きましょう」
「大丈夫です! それより朝のことをおしえてください」
ダーリンはリーヤの勢いに圧されて、朝の出来事を簡潔に話し出した。
「今朝といっても、つい先ほどのことです。こちらに来られたリーヤ様は、ダヴィット殿下に対して罪悪感を抱いておられました。理由は、殿下とお祭りに行くことが出来なかったからです」
「祭り…?」
記憶喪失の手がかりになるかもしれないと思い問い詰めたが、さっぱりだ。けれど自分とダヴィットが親しい仲であったことは事実らしい。
「…俺は、本当にダヴィットの婚約者なんでしょうか」
「…? ええ、間違いなく」
「えっ、うそぉ…!」
素っ頓狂な声をあげるリーヤは絶句に近い衝撃を受けていた。認めたくはないが彼女の目は真実を語っている。垣ノ内リーヤは間違いなくホモで王子の伴侶なのだ。そしておそらくここはきっと日本ではないのだろう。それなら彼が王子であることにもまだ納得がいく。見る人見る人全員が外国人という謎も解決する。だいたいドッキリにしては大掛かりすぎる上、記憶をなくした自分に対してしてあまりにも不謹慎だ。日本語がペラペラなのは不可解だが、それはこの際無視しよう。
「俺とダヴィット王子の婚約は、2人が望んだものだったんですか」
「もちろん。特に殿下はリーヤ様をとても愛していらっしゃいますよ」
「………」
「殿下がリーヤ様を見つめる目はいつも優しくて、あんなに仲睦まじいご様子でしたのに、忘れてしまったんですか?」
柔らかい表情をつくったダーリンの言葉に、頬に熱が集まるのを感じた。それと同時に自分に拒絶された時のダヴィットの傷ついた顔を思い出す。
きっと、記憶を失う前の垣ノ内リーヤはダヴィットのことが大好きだったのだ。はたしてその気持ちを今の自分が台無しにしてもいいのだろうか。記憶が戻ったとき後悔するのは自分ではないのか。
「あの、実は俺…」
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