先憂後楽ブルース
006
「それでは殿下、カキノーチ様、私はここで失礼致します」
リーヤをダヴィットの私室へと案内したハリエットは、軽く頭を下げ早々にその場を立ち去った。もちろん彼女は踵を返す寸前、リーヤに鋭い視線を送るのも忘れなかった。
「ったく、ハリエットは何であんなに頑固で嫌味なんだか」
つい数日前、ろくに挨拶もせず逃げ出した日以来のタワーへの帰還だったが、リーヤはダヴィットへの罪悪感も忘れハリエットに対して悪態をついていた。
普段の彼は年下の女子を悪し様に言うタイプではないが、どうやら彼女とはかなり相性が悪いらしい。
「俺のこと完全に馬鹿にしやがって。ダヴィット、あんな分からず屋さっさと解雇しちゃえよ」
「愛するお前がそう言うなら」
「…………え。まさか、本当に辞めさせたりしないよな?」
「そういうところが好きだぞ、リーヤ」
「…はあ? なんだよそれ」
疑心を含んだ怪訝な表情にも、にこにこと微笑むだけのダヴィット。もしかして自分は今、彼に担がれたのだろうか。だとしたらハリエットに単純だと思われても仕方がないのかもしれない。
今日のダヴィットは、不気味なくらい上機嫌だった。もちろんリーヤがそれを不自然に思わなかったわけではない。だが彼のこの優しさは、きっと夏夜祭の一件をしらないがゆえのものだろうと、リーヤは頭の中で決めつけた。ダヴィットがクロエとのことを知らないならば、自分から白状して彼の機嫌を損ねることもない。勝手にタワーから出ていったことだけ詫びよう、というずるい考えが芽生えたのも事実だ。
「ああ、戻ってきてくれて嬉しいぞリーヤ。さあここに座れ」
「うん…」
リーヤの性格上、いざとなるとなかなか謝罪を切り出せない。ダーリンさんの前でなら素直になれるのに、改まってダヴィットに謝ることは何故だかとても難しかった。
ダヴィットが引いてくれた椅子に腰掛けると、目の前のテーブルにはいつもの紅茶が用意されていた。十分に温められた紅茶など夏に飲むものではなかったが、ダヴィットもリーヤもその甘い香りをとても好んでいて、タワーにいる間は毎日のようにティータイムを楽しんでいた。
「無理に連れてきてしまってすまない。喉が渇いたろう。これを飲みながら私と話をしよう」
「あ、ありがとう」
ダヴィットは彼のお気に入りらしいティーポットを手に取り、音を立てずに紅茶をカップに注ぎ込んだ。リーヤは温まったティーカップを手にとり、周囲を見回して初めて、異変を察した。ハリエットへの憤りとダヴィットへの罪悪感で周りが見えず、すぐには気づけなかったが今日はなんとも奇妙だ。まず、いつもならいるはずのジローがいない。彼がダヴィットの側を離れるところなど、リーヤは今まで見たことがなかった。
「ダヴィット、今日はジローさんは? 何でいないの?」
「アイツには用を言いつけた。すぐに戻る」
「ふーん…」
いつも、リーヤとダヴィットの紅茶を淹れてくれていたのはジローだった。だがそれもよくよく考えてみればおかしなことだ。普通そういう雑用は給仕がするものではないだろうか。リーヤの知る限りでは、護衛であるはずのジローが何故かいつも秘書のようにダヴィットの身の回りの世話をしていた。ダヴィットに近づいた給仕を見たのは恐らく1度きり。以前リーヤが伝染病の治療法を探していた時だ。あのときはジローもダヴィットも手が放せず、やむを得なかったのかもしれないが、そこまでジローにすべてを任せる理由がわからない。
「ダヴィットってさ、実は結構ジローさんのこと……ん?」
「どうした、リーヤ」
「これ、いつもの紅茶と違う」
特に飲食に対してこだわりがあるわけではないが、リーヤの舌は味に敏感だ。些細な変化もすぐに気づく。
「嫌いな味か?」
「いや、そんなことないよ。これはこれで美味し……痛ッ」
「リーヤ!?」
突然、謎の頭痛に襲われ思わず手にしたカップを落とし、リーヤはカーペットの上に倒れ込んでしまった。赤い絨毯に出来たシミの上に左手をつき、右手で痛む頭を押さえ込む。まるで鈍器で殴られたかのような衝撃と痛みに、呻くことしか出来なかった。
「何っ、頭いたいっ…!」
「大丈夫か!? しっかりしろリーヤ!」
ダヴィットに優しく抱き留められているのが、かろうじてわかった。浸食する痛みに意識がどんどん遠のいていく。リーヤは気を失う寸前、滲む視界の端にダヴィットの取り乱した表情が見え、彼に謝れなかったことをひどく後悔した。
「やはりやってしまわれたんですね、殿下…」
ベッドに横たわるリーヤの姿を見て、ジローの顔は血の気をなくし真っ青になった。ダヴィットによってベッドへと運ばれたリーヤは、一見穏やかに眠っているように見える。だが身体は今もあの双子の薬に侵されているに違いない。
「リーヤにあそこまで痛みを与えてしまうとは、予想外だった」
「殿下…」
ジローは一歩一歩、リーヤの傍らで彼の手を握るダヴィットに近づいていく。考えていることが顔にすぐ出るタイプのジローは、リーヤが来たとき隣の部屋に追いやられていたため詳細はわからないが、リーヤに視覚的変化は見られない。ジローは薬が混ぜられたらしい紅茶を横目に見ながら、恐る恐るダヴィットに尋ねた。
「ところで殿下、これは一体何の薬なんですか?」
「知らん」
「えぇ?!」
得体の知れない薬をリーヤに使うなど、今まで双子達が結果を出してきたとはいえ、そうそう出来ることではない。つまりダヴィットが彼らを相当信用しているか、よほど切羽詰まっているかだ。
「だが、それは今にわかる。奴らは私とリーヤがいっそう仲睦まじくなれる薬だといっていた。…リーヤ起きろ、起きて私を見てくれ」
ダヴィットはリーヤをゆさゆさと優しく揺り起こす。気絶していた彼からはすぐに反応があった。
「んっ…んん」
「リーヤ!」
瞼がふるえ、ゆっくりとだが開いていく。あれだけあった痛みはもうないようだ。ダヴィットは期待に胸を膨らませながらリーヤの手を強く握った。
「ここ、は…」
「私の部屋だ。リーヤ、頭は大丈夫なのか? 痛みはどうだ。何か変わったことはないか?」
リーヤと視線がかち合ったダヴィットは矢継ぎ早に質問を繰り出すが、彼から返ってきた言葉は簡単には信じがたい途轍も無いものだった。
「あなた……誰?」
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