神様とその子供たち
003
イチ様に見つめられて、僕は緊張のあまり固まっていた。こちらまで歩いてくる彼の立ち姿と可愛い子犬に僕は色んな意味で釘付けだった。
「来てくれてありがとう。これからよろしく」
「い、いええ。こちらこそよろしくお願いします…!」
彼が優しく話しかけてくれたことに僕は感極まって震えてしまった。イチ様のことは話で聞いただけでまだ何も知らないのに、すでに彼を特別視し始めている自分に少し驚く。偉い人に会えてはしゃいでいるミーハー思考なのか、単に恐ろしいと思っていた相手に優しくされて舞い上がっているだけなのか。
一人悶々としていると彼がずいと抱いていた子犬を差し出してきた。また? と思ったものの今度も素直に受け取ってしまう。小さいその子はふわふわのもこもこですごく大人しかった。まだ生後2、3ヶ月といったところか。会うたびに触らせてくれるなんて、彼はどこまでお人好しなのだろう。
「うわあ、やっぱり何度見てもかわいい…!」
思わず頬擦りしてしまった僕ははっと我に返り、慌てて謝りながら子犬をお返ししようとしたがイチ様は受け取ろうとしない。不思議に思っていると、隣のセンリが僕らの間に入ってきた。
「カナタさん、前にお渡しした契約書はお持ちですか?」
「あ、はい。持ってます」
僕がポケットから紙を取り出す間イチ様が子犬を抱いていてくれた。サイン済みの雇用契約書を渡すと律儀に子犬を再び返してくれる。
「…えー、はい確かに。ではこれより先、ここで見知ったことを外へ漏らす事は禁止です。例え親しい間柄であろうと誰かに脅されようと、この契約は守ってください」
「わかりました」
「よろしいです。ではあなたの仕事の説明をさせてもらいます。カナタさんがここでやることはただ一つ、今抱いているおチビさんの世話、それだけです」
「へ…?」
抱いているおチビさん、と言われて腕の中の子犬を見る。僕の仕事がこの子の世話……ってそれだけ?!
「あの、センリ様」
「はい。いや、様はつけなくて結構」
「ではセンリさん、それは本当に仕事になるんでしょうか…?」
「はい?」
「いや、だって。それってただのご褒……」
ただのご褒美じゃないですか、と口に出そうとして思いとどまる。仕事の一つ、というならまだわかるが、まさかそれだけだなんて。
「あの、失礼ですがこの子の世話だけというのは…あまりに…」
「不満ですか」
「まさか! むしろお金をもらってやりたいくらいで……わっ、すみません。いやだって、こんなに可愛いんですよ!?」
まさかこんな場所で長年の夢が叶うとは思っていなかった。この子犬の世話、なんて頭下げてでもやらせていただきたい。けれどうまい話には裏がある、というありがたい言葉もあるのだ。のんきに受け入れる事もできなかった。
「子犬の世話はもちろんさせてもらいます。でも、それだけでここに住まわせてもらってお給料をいただくわけには」
「おチビさんは犬ではなくオオカミです。それにペットではなく、れっきとしたイチ様の子供ですよ」
「…!?」
「養子ですが」
センリさんの言葉にフリーズする。オオカミだったことにも驚きだが、養子というのは一体どういう意味なのか。ここからは言葉を慎重に選ばなければ。それはこの子はペットではなく家族の一員として扱ってくれということなのか、好きすぎるあまり本当に養子にしてしまったのか、どっちだ?
「あーっと、そうではなくてですね、この子は本当に我々人狼の親から産まれた子供なんです。僕たちが狼の血を受け継いでいるのはご存知かと思いますが、その血の濃さには個人差があります。人間に近い人狼もいれば、狼により近い人狼もいます。一般的には狼に近い程優秀とされ、耳が大きく歯が大きく尖っている人狼は狼率が高いと言われています。普通はそれくらいの微々たる差なのですが……この子は突然変異でして」
「……」
それはつまり、この目の前のどう見ても犬…ではなく狼は人狼だということなのか。それはさすがにあり得ないだろうと思ったが、この世界の常識もない僕にその判断はできない。それにわざわざこんな嘘をつくのもおかしいだろう。
「この子の親は、この姿に驚いてしまったんでしょう。産まれてすぐこの子は死んだと嘘をついて、隠してしまったんです。母親の気持ちも察するに余りありますが、やりすぎでした。不審に思った行政が介入しようとしましたが、夫婦は頑なに家にいれようとせず、そのためイチ様が直々に夫婦に交渉、説得しこの子を助けたんです」
僕の腕の中でおとなしくしている子オオカミの生い立ちに悲しくなってくる。確かによくよく見ると犬とは顔が微妙に違うように思える。しかし人間の血がまざっているようにはとても見えない。
「助け出された時は怯えきっていて、誰も側に寄せ付けさせませんでした。それをイチ様が根気よく心を開いてもらえるよう愛情を注いだんです。今ではすっかり慣れて、この子はイチ様が引き取ることになりました」
「確かに、今はすごくなついてますよね」
ほぼ初対面の僕にも大人しくだっこされている。とてもそんな過去があったような子には思えない。しかし僕の言葉にセンリは困ったように笑った。
「実はおチビさん、未だにイチ様にしかなついてないんです。それどころか触らせることもしてくれなくて」
「え、でも…」
「ほら」
そう言ってセンリが手をのばすと途端にあれだけ可愛かった子オオカミが暴れて僕の後ろに隠れようとした。それを見てセンリすぐに手を引っ込める。
「ね?」
「でも、だったら何で僕は大丈夫なんですか」
「あなたが人間だからですよ。どうやら人狼だけが恐いみたいなんですよね、この子」
ね、とイチ様に視線を向けるセンリ。イチ様はゆっくり頷くだけで特に話さない。この人は本当に無口だ。
「ただでさえイチ様はお忙しいのに、チビはイチ様の姿が見えないと吠えるわ暴れるわで大変なんです。しかし最近人間ならば怖がらないということがわかって、人間を世話係りに雇うことなりまして。それで選ばれたのが、あなた」
たくさんいる人の中で僕が選ばれた理由がわからないが、とりあえず人間ならば誰でも良かったということなのか。イチ様が人間を雇う理由はわかった。合点はいったが、それはかなりの大役な気がする。
「チビをイチ様から引き離すのは至難の技です。何度か他の人狼の使用人をお借りして預かってもらったこともあるのですが、機嫌よく人間と遊んではいても、イチ様の姿が見えなくなると相変わらず吠えて暴れていました」
「……」
「全員すぐ根をあげていましたが、あなたは正式に雇われた以上、イチ様不在の間何があっても面倒をみてもらいますので、よろしくお願いしますね」
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