しあわせの唄がきこえる
004
後で必ず戻ります。だから友達にはなにもしないで。
これが俺が羽生に送ったメールの内容だ。
あの後、羽生がいなくなってからも桃吾達は本当に俺を見送ってくれた。しかも校門までではなく少し下ったところにあるバス停まで。そればかりかバスが来るまで待っていようとしてくれたが、それは丁重に断っておいた。
そして彼らが立ち去った後、俺はメールの文面通りこっそりと学校に戻った。俺のためにわざわざ送りに来てくれた彼らには悪いが、羽生誠がキレて桃吾達に何かやらかすんじゃないかと思ったらこのまま帰るわけにはいかなかった。
俺の携帯に羽生からメールが入っており、寮の部屋番号が書かれていた。俺は誰にも見られないように細心の注意を払いながら学校の敷地内にある寮へと戻った。幸運にも下校時刻から少し過ぎていることもあり人影はほとんどない。
メールによるとの奴の部屋は322号室で、俺は階段を使って三階まで登っていった。部活をしている生徒が多いためか人気はなく、遠藤流生の部屋とはかなり遠い事にはなんとなくほっとした。
「……おせぇよ」
インターフォンを押すと、しばらくして扉が開き、制服のままの羽生が苛ついた様子で出てきた。入れ、という奴の言葉に嫌々ながら従った。
羽生の部屋はなんというか、綺麗にしているわけでも汚すぎるわけでもなく、洒落っ気も何もない男丸出しの部屋だった。テーブルには灰皿と煙草、そして酒の空き缶が堂々と転がっている。ヤニ臭い匂いが鼻について、なんとなく空気が淀んでいる感じだ。部屋の抜き打ちチェックとかあったらどうやって誤魔化すのか。いや、そんなものがないからこその有り様なのかもしれない。
雑誌や着替えが散らばるベッドに座り、煙草を1本取りだし煙を吸い込む。真っ昼間だが黒いカーテンで締め切っているため部屋は薄暗く、お世辞にも居心地がいいとは言えなかった。
「で、あれは何だったんだ」
「えっ」
「てめぇの取り巻きだよ。知らねーうちに大所帯じゃねえか」
「取り巻きじゃなくて友達……って言ったじゃないですか。桃吾には顔の痣の事を聞かれて、話す気はなかったんですけど、強く問い詰められて、つい」
「それで、てめぇのボディーガードを善意でやってるってか。命知らずだなァ」
くくっと笑う羽生に俺は顔をしかめるのを必死に我慢した。とりあえず羽生が桃吾達に何もしない様にここに来たが、正直さっさとここから逃げたい。これからどうすればいいか、計画も何もないのだ。
「元カレは何もしてくれねぇのに、ご苦労な事だ」
それはまぁ、確かにおっしゃる通り。
「崎谷先輩は関係ありません。もう、会わないようにしてますから」
「ふーん、つまんねぇ」
羽生からもう少し距離をとりたいところだが下手に動くと奴の神経を逆撫でしそうだ。とりあえず今は羽生がこれから俺をどうするつもりなのか、それを聞き出す必要がある。崎谷一成ともう何の関係もないとわかれば、案外すぐに俺に飽きてくれるかもしれない。
「ま、それはどうでもいい。腹が立つのはあのお前の友達だ。弱いくせにこの俺に歯向かってきやがった。痛い目見せてやる」
「え、いやそれは…っ」
羽生は桃吾の事をまったく許してくれていなかった様で、憎しみをこめるように灰皿に煙草をぐりぐりと押し付け潰した。
「待ってください、桃吾には俺から言ってきかせます。もう二度と先輩を煩わせません」
「……はぁ? なに言ってんだ、てめぇ」
鋭い眼光をこちらに向け、一瞬で俺を黙らせる。思わずこちらも睨み返して唾でも吐きかけそうになったが、拳をつくって耐えた。
「いいか、俺はこれでも譲歩してやってんだよ。お前が俺に大人しく従ってる分にはな。でもあの正義感に溢れたおトモダチを、お前が説得できるとは思えねぇ。次あいつが俺に偉そうな口ききやがったら、容赦しねーぜ」
「……」
俺は何とも言い返すことができず、唇を噛み締めた。不条理ではあるが、頭が足りなさそうなわりにもっともなことを言う。桃吾が羽生に従う俺を黙って見過ごすはずがないし、かといって俺が羽生に歯向かえば必ず面倒な事になる。俺がこの男に負けるという意味ではない。こいつをズタボロにしたところで、羽生誠という男を大人しくさせられるとは思えないからだ。
けれどこのままでは、桃吾が羽生にやられてしまう。俺は桃吾に復讐するためにここに来たが、怪我をさせるつもりは毛頭ないのだ。まったくどうして、こんなややこしい事になってしまったのか。俺はただ、自分のトラウマを消し去りたいだけだったのに。
「提案があります」
「提案?」
「はい、今日から俺は、羽生さんに呼ばれたらどこにでも行きます。だから羽生さんは、人の目がある時は俺には近づかないでください」
「はぁ? 何だそりゃ」
「そうすれば! 桃吾だって羽生さんには歯向かいません。桃吾は威勢はいいですが、ほんとは恐いんです。殴りあいの喧嘩なんてしたこともないような奴だから。でも俺のために、無理してあんな強がって…。お願いします、羽生さん…」
気がついたら、そんなことを口走っていた。こんなこと羽生みたいな男に言ったって、どうにもならないことはわかりきっているのに。
「随分、友達思いだな。イラつくぐらいに。でもいーぜ、お前には利用価値があるからな。崎谷だってまだ、お前のこと引きずってる」
「……どうしてそう思うんですか?」
イラついていたはずの羽生がやけに楽しそうにそんなことを言うので興味本意で尋ねる。確かに別れを口にした時、未練が残っていそうな感じはした。
「どうして、って。あれだけ人嫌いだった崎谷と付き合ってたんだろ? 別れたくらいでどうでもよくなるわけねぇ。自覚ねぇのかよ」
「……」
そんな難攻不落な美形ぼっちと付き合うところまでいった、暁のコミュニケーション能力が恐ろしい。で、羽生は俺を崎谷を脅すための道具にしようとしているのか。
俺は5秒程考え、すぐに覚悟を決めて奴に近づいた。
「だったら、俺が自分の意思で羽生さんに従ってるのを見たら、崎谷先輩はかなりタメージを受けるんじゃないですか」
「……あ? 何が言いたい」
「俺が羽生さんを好きだって、崎谷先輩に思わせましょう。あの人のショック受けた顔、見たくないですか?」
「ははっ、言うな立川。お前はそれでいいのかよ」
「桃吾のためなら、俺は……」
桃吾のため? 何を言ってるんだ俺は。
泥沼だ、このままじゃ。深みにはまって、嘘を重ねて、どんどん抜け出せなくなる。
「じゃあお前は同意のもとで俺に犯されて、前みたいにヒィヒィ泣いきわめくことになっても良いってことだな? しかも崎谷に見られても、それでもいいってのかよ」
「……」
こいつにヤられて傷ついた自分に自覚したばかりだった俺には、正直無理な話だった。あんな思いは二度とごめんだ。けれど俺はもう覚悟を決めた。桃吾を守るためならこれくらい何ともない。元より誰とでも寝てきたような男なのだから、今更何でもないふりをすることなど容易い。
「桃吾にバレないようにすると約束してくださるならかまいません。俺は、羽生さんに従います」
「へぇー…、お前、よっぽどあの友達が好きなんだな。まさか惚れてんのかよ」
羽生に核心をつかれて、俺は黙って目を伏せる。そうだ、結局俺は桃吾が好きなのだ。直接会うまでは、奴のことはただの苦い過去でしかなかった。少なくともそう思っていた。けれど実際に会って、俺はもう復讐どころではなくなってしまった。本当に忘れられていたなら、ここに来ることもなかっただろう。俺は永遠に忘れておくはずだった自分の本音を、自身の手で掘り起こしてしまったのだ。
「口だけじゃねえってこと、証明しろ。脱げよ、立川」
奴は俺の頭を掴み、そのまま無理矢理ベッドへと引き倒す。昨日の今日で、また奴にヤられることになるとは。
肩にさげていたカバンを下に、制服も床に落とす。俺は嘆く暇もなく、自ら自分の首を締めていった。
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