しあわせの唄がきこえる
007
暁におしえてもらった家は、駅の近くにあるちょっとこ洒落たマンションだった。今日は母親がいるとのことでやや緊張しながら部屋の扉を開けたが、そこにあいつの姿はなかった。どうやら出掛けているらしく、まだあまり会う覚悟ができていなかった俺はちょっとホッとした。
今のうちに出来るだけ物の場所や位置を把握しておこうと、家の中を一通り探り始める。室内はどこもかなり綺麗に整頓されていて、親父と二人暮らしのうちの家とは雲泥の差だった。特に綺麗にされていたのが暁の部屋で、物で溢れかえってごちゃごちゃとした俺の部屋とは対照的に、あまり物のないシンプルな部屋だった。
整頓はされていたが当然生活感はあり、ここで暁と母親が生活している姿が簡単に想像できた。俺は母親の顔をもちろん覚えているが、自分のこの記憶が本当に正しいのか自信はない。この数年で姿形がまるで変わっているかもしれないのだ。あいつを、今さら母親だなんて思えるのだろうか。全然知らない他人にしか見えなかったらどうすればいい。
唐突に不安になった俺は、リビングに戻って写真を探した。今の姿が写った母親の写真だ。うちには一度離婚しているだけに母親の写真が一枚もなかった。あったとしても見ていたかわからないが、実物を見てショックを受ける前に、心の準備ができていた方がいい。いきなり本人に対面するのが怖くて写真を探すなんて情けないが、これも暁のふりをするためだ。
実のところ、俺にはあまり母親との記憶がない。外見にむしろ一番覚えがあるくらいだ。元々思い出なんかに興味もないが、引っ越す直前その時の俺にとってはかなりショックなことがあり、昔の記憶は結局そっちに全部持ってかれてしまった。結果、小学生の俺が家族4人で生活していた過去なんてものは皆無に等しく、やたら喧嘩している母親と父親をちらっと覚えているくらいだった。
そこかしこの引き出しや棚を片っ端から開け、泥棒の様に家捜しするも写真は見つからない。それにしてもリビングに家族の写真1つないなんて、こういうとこは親父と同じか。
俺が探すのに疲れ始めた時、玄関の扉が開く音がした。この家の住人は暁を除いては1人しかない。
「ただいまぁ〜」
数年ぶりに聞く母親の声に俺は身体は硬直した。アイツはこんな声…だっただろうか。記憶通りな様な、そうじゃない様な。そんなとりとめのないことを考えていると、リビングに入ってきた母親とばっちり目があった。
「……」
「……」
久しぶりの親子の対面。心の準備をする間もなく顔をあわせてしまった母親は、俺の記憶では長い黒髪だった気がするが短い茶髪になっていて雰囲気がまるで違う。顔立ちは想像の範疇内ではあったが、むしろ昔より若返っている様な気さえした。
これが俺の母親、と現実と向き合う準備をする前に、相手がすごい形相でこちらに向かってきた。
「ちょっと暁ぁ! あんた帰ってんなら何で洗濯物取り込まないのよ!」
「え」
いきなりなじられ唖然とする俺の横を通りすぎ、彼女は鞄を投げ捨てベランダへと出ていく。そして素早い動きで干しっぱなしになっていた服を取り込んでいった。
「もぉー、服が冷たくなっちゃったじゃな〜い。あんたは何でそういう気がまわらないかなぁ…」
「……」
これは、会って早々怒られている…のか? こっちからしてみれば久しぶりの再会だというのに、バレるバレないでドキドキするまでもなく叱られるなんて。
「つかあんた、よく見たら家ん中ぐちゃぐちゃじゃない。いったい何やってんのよ」
「いや、ちょっと探し物を……」
「なに探してんの」
「え…っと」
「どーせくだらないモンでしょ。何でもかんでもその辺に置いとくから場所がわかんなくなるのよ」
皿も洗ってないじゃない、とぼやきながらエプロンをかけて台所に立つ母親。奴が帰ってきてから数分しかたっていないのに、数年分怒られた気がする。
「……」
びっくりした。びっくりした…のはしたが、コイツが自分の親だと、驚くほどすんなり認識できた。母親の叱り声は何だかとても懐かしく感じて、昔はこんな感じだったのだろうかと想像することもできた。
母、というものに直面してしばらく呆けていた俺だが、台所に向かっていたはずの奴に俺の顔をまじまじと見られているのに気付いてぎょっとした。
「暁…あんた……」
「……っ」
も、もしかしてバレた? 絶対大丈夫だと思っていたのに、やっぱり実の親を騙すのは無理だったのか。
内心慌てる俺にずかずかと近づいてくる母親。そして俺の顔をまじまじと見つめ、思いっきり顔をしかめた。
「しばらく見ないうちに、ちょっと太ったんじゃない?」
「……へ」
「絶対太ったわよぉ。夜中にお菓子ばっか食べてたんじゃないの?」
まさかの言葉に何も言い返せなくなる俺。いや、会ってから一度もまともに言い返してなどいないが。というか、これは俺が暁より太っているということなのか。いや、断じて太ってるんじゃない。俺の方が鍛えているだけのことだ。
「仕方ないなぁ…、明日からヘルシー思考のメニュー中心にしてあげるから、しばらくお菓子は我慢ね」
好き勝手なことを言うだけ言って両手を広げる母親に、訳がわからず固まる俺。すると母親は少し不機嫌な顔になってそのまま俺を抱き締めてきた。
「うっ…!」
「喧嘩してても母さんが帰ったらハグ! 我が家の約束でしょ〜」
窒息死しそうな程強く抱き締められあまりの苦しさに呻いてしまう。なんという馬鹿力、つかハグって、こいつら毎日そんなことやってんのかよ。
さんざん俺を羽交い締めにしてようやく満足してくれたらしい母親から解放され、その場に倒れこむ。どんな不良のどんなボディーブローよりも効いた。
「あんた、やっぱり太ったわよ。まぁ痩せすぎじゃないかって心配してたくらいだから別にいいんだけど、新しい制服なんか絶対買わないんだから気をつけてよ」
じゃ洗濯物とお米炊くのヨロシク〜、という台詞を残してリビングから出ていく母親。あれが俺の母とか、なんて強烈なんだ。もっとこう、大事にされてる感がひしひし伝わってくる感じかと思っていたのに。
親父以上に子供をこき使ってくる遠慮のない姿に安堵しつつも、これからのことを考えると頭を抱えたくなる。一緒に暮らしていくことに1日目で嫌気がさすなんて、果たしてこのままずっと耐えられるのかと不安になった。
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