しあわせの唄がきこえる
003
「こんにちは」
放課後の美術室に入ろうとした彼に笑顔で声をかける。その男は俺をみるなり目を見開き、そして煙たそうに顔をしかめた。初対面ながら、歓迎されていないのが嫌でもわかる表情だ。
「宇津見君だよね。俺、立川っていうんだけど。ちょっと話してもいい?」
「……あんたのことは知ってる。何の用?」
宇津見は暁の事が嫌いではあるのだろうが、話を聞く気はあるらしい。近くの空き教室に誘導して、俺は彼と二人きりになることができた。
「人目があるところでできる話じゃないんだ。ごめん、すぐに済むから」
「もうすぐ部活が始まるから、手短に。わかってるだろうけど」
そう、彼が美術部の部長だと調べて知っていたからこそ、あそこで待ち伏せていたのだ。遠藤の目がないところで彼と話すために。
「話ってのは、戸上さんの事なんだ」
「……!」
奴の名前を出した途端、宇津見の顔色が一瞬で変わった。どうやら彼が奴にされたことは本当らしい。
「俺、前からあの人に狙われてたんだけど、俺が流生の友達だって言ってから何もされなくなったんだ。何でなのかって戸上さんに直接訊いたら、宇津見君の名前が出たから……」
あくまで暁として話し続ける俺に、顔色がどんどん悪くなる宇津見。俺は戸上に襲われ脅しのネタにされているという彼に会って、奴の話の真偽を確かめようと思ったのだ。いくつか方法を考えたが、やはり手っ取り早く確実なのは本人に直接訊くことだ。
「で、僕が何だって言うんだよ。立川君に何の関係があるわけ」
「宇津見君が戸上さんを抑止してくれたおかげで、俺は助かったから。知ったからにはお礼を言わなきゃと思って。……ありがとう」
頭を下げて礼を言う俺に、宇津見はかなり驚いていた。彼のトラウマに土足で踏み込んだのだから怒られても仕方がないと思っていたが、意外なことに彼は少し笑っていた。
「立川君ってほんとおかしい。そんなことわざわざ言わなくていいよ」
「う、うん。でも……」
「それに礼なら流生に言った方がいい。流生が励ましてくれなかったら、俺にそんな勇気は持てなかったし」
「……」
やはり戸上が言っていたことは嘘でもないらしい。奴は本当に遠藤に脅されていて、そして宇津見は間違いなく戸上の被害者だ。
「でも、勇気だしてあいつに立ち向かって良かった。……おしえてくれてありがとう。僕のやったことは無駄じゃなかったって、わかったから」
震える声に宇津見の顔を見ると目が少し赤く潤んでいる。泣いている事に気づいて、俺は内心すごく慌てていた。
「立川君が無事で、本当に良かった」
「……」
宇津見が心から安堵しているのがわかって、俺は騙してる罪悪感で心が痛んだ。本当は暁は無事ではなかったのだ。そのことが喜んでる宇津見に申し訳なかった。
次の日、俺は昼休みに羽生を誘って食堂で昼食をとっていた。羽生だけ誘ったつもりだったがおまけで諫早まで付いてきてしまっている。おそらく暁を心配して同行してきてくれたのだろうが、場の空気の悪さにもう彼の精神は持ちそうになかった。
「……あの、二人とも何かあったんですか?」
遠慮がちに俺に訊ねるオチビさんに笑って誤魔化すしかない俺。羽生は黙々と飯を食ってるし、俺は俺で何も話さないので無言の重たい空気のまま時間だけが過ぎていく。
「もうどーしよ。こんな時に戸上君がいてくれたら…。何で入院なんかしちゃうかなぁ……」
「入院したんですか? 戸上さん」
「え。ああ、うん。そうなんですよ、何か派手に喧嘩したらしくて」
諫早はどこかから聞いたそれを信じているらしいが、俺はすぐにわかった。どうやら羽生は本当に戸上を大人しくさせたらしい。俺は奴に笑顔を向けたがこちらを見ようともしなかった。
俺は食べ終わった皿を横にどけると、そのまま椅子の上に足を乗せる。ぎょっとする諫早を無視して靴のままテーブルに立ち上がった。突然の奇行に羽生もちろん周囲の生徒も唖然と俺を見ていた。そのままテーブルの上の水の入ったコップを手に取ると、固まったまま羽生の前まで歩き水を頭上からゆっくりとこぼしてやった。
「えっ、えっ、何やってるんですか!? 立川君!?」
諫早が真っ青な顔して俺と羽生を見比べる。奴は俺にされたことが理解できないのかまだアホみたいに口を開けて俺をみていた。食堂にいた生徒もテーブルの上に立つ俺の自殺行為ともとれる行動に騒然となっていた。
「は、羽生さん違うんですこれは! 立川君も悪気があったわけじゃ…!」
何故か自分は関係ないのに言い訳し始める諫早が笑いを誘う。ようやく事態を飲み込めたらしい羽生が一瞬で鬼の形相になった。
「てっめぇ何しやがっ……んっ」
その場で膝をつき羽生の怒鳴り声を自分の口でふさぐ。そのまま奴が何も話せなくなるまで、俺は濃厚なキスを続けていた。
「……!?」
「……ははっ、面白い顔」
ようやく口を離した俺は最後に水の滴る羽生の頬に優しくキスをして、さっさと机から下りる。そして奴が何かを言う前に俺は羽生に背を向けた。
「立川君!?」
一人にしないで! と言わんばかりに呼び止めてくる諫早。振り返った俺は羽生に向かってひらひらと手を振った。
「ぶっ殺すのは後にしてくれよ、羽生さん。放課後、部屋に行くから待ってろ」
「ええっ!? ちょっと待ってください!」
こんな状態で置いていくなんて酷いという諫早の悲鳴は無視だ。食堂を出るとき注視する視線の中に、お目当ての人物を見つけた俺はそいつとしっかり目をあわせた。
崎谷一成。こいつがいたからこそ羽生をわざわざ食堂まで連れてきたのだ。ちゃんと見てくれないと困る。
羽生以上に茫然としている崎谷に、笑みを見せる。そのまま歩調を緩めることなく、俺は悠々と食堂を後にした。
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