日がな一日
002
勢い余って出てきてしまったものの、手に萩岡のロッカーの鍵を握ったまま瀬田は途方にくれていた。
こんな鍵は誰かに見つからないところにさっさと捨ててしまうのが、トラブルを避けるための最善の方法だとわかっている。けれど杵島をあんなに責めた自分が彼に荷担するようなことをするわけにはいかない。
何より、杵島を庇った自分にも責任があると瀬田は思っていた。
「……どうか、生きて帰れますように」
覚悟を決めた瀬田が向かったのは、この階で杵島の部屋から一番離れた場所にある萩岡の部屋だった。
普通ならこの時間生徒会役員は生徒会室にいるが、行事などの資料作成が主な仕事の萩岡はそれを自分の部屋に持ち帰ることが多い。遊びに出ているのでなければ部屋にいるはずだ。
考えれば考える程逃げたくなるので、あまり後のことは考えないようにしながら扉をノックする。それなりに覚悟を決めてここに来たはずなのに、頼むから中にいませんようにと願っている自分がいた。
「はいはい誰ですか〜…って、瀬田柊二!?」
扉を開けて瀬田を出迎えたのは萩岡ではなく、萩岡の友達でクラスメイトの矢形だった。
「えっ、何で? 何か用?」
「萩岡君に話があって来たんだけど、ここにいるかな…」
「あー…ちょっと待って」
矢形は乱暴にドアを閉めると、何故かガチャリと鍵をかけた。萩岡と同じくらい彼の友人を苦手とする瀬田はタイミングの悪さに頭が痛くなった。
少しも待たないうちに扉が開いて、中から萩岡が出てきた。その背後には矢形と京川もいて様子を窺っている。
「俺に話って何だよ。わざわざ部屋にまで来て、文句の一つでも言ってやろうってか」
萩岡の鋭い眼光にとらえられ身体が縮み上がってしまう。瀬田はゆっくり深呼吸しながら、手に持っていた鍵を差し出した。
「それ、孝太の鍵じゃん。何で瀬田が持ってんの」
背伸びして様子を窺っていた京川が不思議そうに訊ねてくる。いっさい表情を変えない萩岡の代わりに他の二人が表情豊かに話し続けた。
「えっ、まさか鍵盗んでたのって瀬田だった?」
「マジ?! そんな勇気あんのかよ!」
「ちがっ…」
慌てて否定する瀬田に視線が集中する。本当のことを言うためにここに来たはずなのに、言葉が出てこなかった。
「たまたま、見つけて…届けにきたんだ」
杵島が盗んだと知ったときの萩岡の怒りを想像すると、告げ口なんてとてもできなかった。これでは完全に杵島の共犯者だ。
「お前、俺に嘘つく気か」
自己嫌悪でぐるぐるしていた瀬田に、萩岡が背筋も凍る冷たい声を出した。
「てめぇの考えてることなんかすぐわかんだよ。それ、杵島が持ってたんだろ」
「!?」
的確な指摘になぜ知っているのかという表情をもろに出してしまう。唖然とする瀬田に萩岡は冷めきった視線を送り、腕組みしながら壁にもたれていた。
「俺を嘘つき呼ばわりしたくせに、自分は平気で嘘つくとか。それって人としてどうなわけ」
「…ごめん、なさい」
「あの眼鏡はどうした? お前なんかの謝罪だけで俺が許すとでも思ってんの? ほんと笑えるな、お前ら」
「ごめんなさい。杵島くんにも、ぜったい謝らせるから。だから──」
「だから?」
「杵島くんに、何もしないで…おねがい…」
瀬田はそれだけ言うのが精一杯だった。このままじゃ杵島が萩岡に何されるかわからない。その可能性を考えるだけで目の前が真っ暗になった。
「はぁ…」
萩岡の苛ついた深いため息が聞こえて、瀬田は身を硬くした。次何を言われるかとビクビクしながら、まるで心臓を鷲掴みにされている気分だった。
「だったら土下座しろ。今ここで」
「…!?」
「それくらいできんだろ。ほら、やれよ」
萩岡の命令に瀬田はしばらく呆然としていたが、気がつくと殆ど無意識にゆっくりと膝をついていた。瀬田に選択肢はなかった。萩岡に許してもらうためなら、頭を床につけるくらい何でもないことだと思えたのだ。
「う、わー…」
京川のドン引きの声が聞こえる。顔を床にふせているので表情はわからないが、言われるがままに土下座をする瀬田を見て、何を思うかは簡単に想像できた。
「普通ここまでする? お前、頭イってんじゃねえか」
京川の暴言に返す言葉もない。杵島のためか自分のためかはわからないが、こんなことをする必要が本当にあるのか。けれど杵島と萩岡が争わずにすむなら、これ以上の事だってできた。
「こいつおもしれー。マジで何でもやるんじゃねえの」
瀬田の考えを見透かしたようなことを言いながら、矢形は笑いながらこちらに近づいてきた。身の危険を感じた瀬田がゆっくりと上半身を起こすと、笑いながら命令してきた。
「じゃあさ、ここで着てる服脱いでみてよ。上も下も」
「え…っ」
矢形の突飛な命令に、従順だった瀬田もさすがに声をあげた。何かの冗談かと思ったが、顔をみると彼は本気で言っているようだった。その無邪気な笑みは完全に瀬田をおもちゃとしか思っていなかった。
「……」
生徒会専用フロアで、誰かが通る可能性が限りなく低い場所であっても、廊下なんかで萩岡達を前に服を脱ぐなんて、そんなことしたくない。嫌だと抵抗したかったが、それ以上に目の前の男達が恐かった。
震えながらもシャツのボタンに手をかけ一つ目をはずした瞬間、ずっと険しい表情だった萩岡が矢形を思い切り蹴り飛ばした。
「…いってぇ!」
矢形の悲鳴に瀬田も京川も驚きのあまり何も言えない。誰も動けず呆然とする中、萩岡が言葉を吐き出した。
「誰がそんなことさせていいっつったよ。勝手なこと言うなボケ」
「……わ、悪かったって、孝太。んなキレなくても、いいだろ」
蹴り倒された矢形は痛みに顔を歪ませ腹を抱えながらも謝っている。もしかして今、自分は萩岡に庇われたのだろうか。信じられない事態に頭が混乱していた瀬田を萩岡が見下ろしながら口を開いた。
「お前も、そんなに杵島が大事かよ」
「……ごめん」
ここでなぜ謝ったのか、瀬田自身にもわからなかった。萩岡の視線から目をはなせずにいると、すぐ後ろから大きな声が聞こえた。
「瀬田! なにやってんだ!」
振り返った先にいたのは、息を切らした杵島弘也だ。彼はひざまずいたままの瀬田のところまで飛んでくると、何故か勢いよくビンタしてきた。
「いてっ」
「勝手なことすんなバカヤロー! 何でお前が萩岡に謝ってんだよ!」
なぜ叩かれたのかわからず唖然とする瀬田に、「酷い…」と同情してくれる京川。杵島は顔を真っ赤にしながら瀬田の胸ぐらを掴み上げた。
「まさかと思って来てみれば……友達に謝らせるくらいなら俺が謝るっつーの! 何でそんなバカな真似してんだよ!!」
「杵島くん、い、いたい」
「てめぇ、萩岡! 瀬田をこんなにしやがって、許さねぇぞ…!」
自分のことを棚に上げてよく言う、とこの場にいる誰もが思った。杵島は瀬田を引っ張り上げて立たせると、威嚇するように萩岡を睨み付けた。
「俺はお前には絶対謝らねぇからな! 文句があるなら勝負してやる! かかってこい」
「言われなくても、てめぇはぶん殴るつもりだったっつーの」
萩岡が拳を固めながら近づいてきて、瀬田は迷うことなく二人の間に割り込んだ。
「待って、孝ちゃん…!」
思わず出てしまった昔の呼び名に、瀬田はしまったと後悔したが口にしてしまっては後の祭り。萩岡は眉間の皺を深くして、瀬田から視線をそらした。
「お前とはもう友達じゃない。馴れ馴れしくそんな風に呼ぶんじゃねぇ」
「……ごめん」
信じられないことだが、萩岡に庇われたことで無意識のうちに昔みたいに戻れるかもと期待してしまったらしい。そんな甘い考えはとっくの昔に捨てたはずなのに。瀬田自身があの時壊してしまったのだ。仲の良い友人同士だった萩岡との関係を。
「瀬田…っ」
杵島に呼び掛けられて、正気に戻った瀬田はそのまま彼の手を掴み走り出す。杵島と萩岡の喧嘩をなんとか避けたい一心だったが、幸いにも萩岡達が追ってくることはなかった。
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