日がな一日
008
「……瀬田くん?」
椿礼人は瀬田にとって絶対的な存在だった。椿が望むならきっと瀬田は何だってしただろう。ただ一つ、付き合うことを拒否したことを除いては。
「駄目だ……やっぱり俺は…」
なぜ椿と離れることにしたのか。その理由考えれば、ここで彼のテリトリーに入ることは踏み止まらなければならないことだった。この異様な空間で、椿の視線を受けながらも瀬田はまだ理性を保っていた。
「君の気持ちはわかるよ、瀬田くん」
椿にそのまま力強く手を引かれ、その場に尻餅をつく。履いていたサンダルが脱げ、立ち上がろうとする瀬田に椿はごく自然に馬乗りになった。
「何……っ」
「孝太にもこうされたんだろう」
「……!」
椿の口から従兄弟の名前が出て瀬田は目を見開く。椿が何故、自分と孝太のことを知っているのか。冷たい床に触れたところから身体が冷えて、考えれば考えるほど寒気がした。
「無理矢理だったってのはわかってる。僕に対する当て付けだろうが、君が悪いとも、無論僕が悪いとも思ってない。すべて孝太がやったことだ。ただ、あいつにはもっと気を付けるべきだった。あの男は二度と瀬田くんに近づかせない。転校させたって良いくらいだ」
転校、ときいて瀬田は倒されたまま息をのむ。けして冗談などではない。椿にはその力がある。瀬田は椿の腕を掴んで首を振った。
「駄目…だよ。そんなの…」
「瀬田くん、君は優しすぎるな。それ相応の罰を与えて然るべきだろう」
「俺は孝ちゃんに怒ってない。あれは俺も悪かったんだ。だから椿くんにそんなことしてほしくない」
「瀬田くんが気遣う必要がどこにある。僕の立場からすれば、あいつがしたことを許せないのは当然のことだ」
「椿くん!」
瀬田は倒されたまま椿を睨み付ける。孝太を退学にさせてはいけないと、瀬田は必死で椿にすがりついた。
「孝ちゃんに何かしたらいくら椿くんでも許さない。俺のためを思うなら放っておいてほしい」
ここまで言わないと椿は瀬田の知らないところで孝太を追い出してしまうかもしれない。瀬田の物言いに椿はショックを受けた顔をしていた。
「…どうして瀬田くんはあいつの味方をするんだ。まさか、あいつが好きなのか?」
「違う! そうじゃないよ」
普段の椿からは考えられない焦燥した表情。いつも自信に満ち溢れていた彼が、まるで別人のようだった。余程疲れているのか、瀬田の言葉がショックだったのか。思わず謝ろうとした瀬田の唇を、椿は自分の口で塞いだ。
「んっ…」
瀬田は身を固くしただけで、抵抗はできなかった。押さえつけられていたのもあるが、瀬田の中の何かがまだ椿を拒絶できていなかった。
「……瀬田くん、君が僕の家のことを気にしてるなら僕はそんなものいらない。──二人で逃げたっていいと、僕は思ってる」
椿のその言葉に、瀬田は何も言い返せなかった。椿がここまで言ってくれるなんて喜ぶべき事なのに、瀬田には罪悪感しかなかった。そしてそんな風にしか思えない自分が許せなくて、泣きそうになるのを必死でこらえながら椿の首に手を回し、震える声で言った。
「俺はそんなこと、して欲しくない。ごめん椿くん。…ごめん」
椿に何もかも捨てさせるような価値は自分にはない。そして瀬田自身、そんな覚悟を持つこともできていない。今になって軽い気持ちで椿に近づいた事を後悔した。瀬田は椿の人生の一部になりたかったわけではない。ただ彼を遠くから眺めているだけで良かったのだ。
(ごめん、椿くん。やっぱり弘也が正しかったんだ…)
瀬田は放心状態になった椿を抱き起こして、そこまま彼を立たせる。椿を拒絶したも同然の瀬田は彼を残して出ていくことが出来ず、彼の返事を黙って待っていた。椿はしばらく息もしていないのかというくらい微動だにしなかったが、ずっと椿を見つめたまま返事を待つ瀬田に気づいて口を開いた。
「ごめんだって? ああ、君が断るとは驚きだな…いや、瀬田くんを追い詰めたのは僕だな」
「違うよ。俺はただ、椿くんに今のままでいてほしいんだ。でもそんなの、俺の勝手な押し付けだ。だから俺みたいな奴のことは、ただのファンの一人だと思ってほしい」
「……」
椿は瀬田を抱き締めていた手を離し、透き通った大きな瞳でこちらを覗き込んでくる。一度捕まれば逃れられないその目から必死で視線をそらすと、椿がため息をついて項垂れた。
「孝太に君の事で色々と言われたのが、自分でも意外なほどに腹立たしかったようだ。あんな奴の言葉、今まで気にしたこともなかったのにな。瀬田くんの優しさが今は憎いが、先走りすぎても良くない。今の言葉は取り消そう」
自分と椿の特別な関係はこれで終わり、と瀬田は少し寂しく思ったが安堵もしていた。これでただのファンでいられるのだ。椿はにっこりと笑って瀬田の手を引いた。
「つ、椿くん…?」
生徒会専用の部屋は広く、リビングとは別に寝室がある。瀬田はあれよあれよという間に部屋に連れ込まれ、広いベッドに押し倒された。
「え、何これ。何かよくないことしようとしてる?」
心の声がそのまま口に出る瀬田。しかし椿は気にもせず瀬田を抱き締めた。
「僕は家から逃げない。君が負い目を感じる必要がないように、認めてもらえるような方法を考える」
「それは嬉しいけど…って違う! そうじゃない…っ」
椿に身体を遠慮なく触られて、慌てふためく瀬田。しかしそれよりも椿に何も伝わっていなかったことが衝撃的で、何と言い返すか考えているうちに服をめくりあげられていた。
「孝太のことなんて忘れさせてやる。今すぐにだ」
「あっ、椿くん…待って…えっ、なにここ」
だんだん暗闇に目が慣れてきた瀬田は、この部屋の惨状が目に入って驚愕した。まるで朝、寝坊してしまった社会人のようにベッドから飛び起きると、半裸のまま素早く部屋の電気をつけた。
「ぬあ…!」
その惨状たるや瀬田は開いた口が塞がらなかった。椿の部屋が整頓されていたことなどない。しかしこの部屋は物が高く積み上げられ、ベッド以外はほぼ物置になっている。今まで見た中で一番酷い有様だ。
「何だよこれ! 何でこんな汚くなっちゃったんだよ!」
「瀬田くん、今はそんなことどうでもいいだろう。ムードを壊すようなこと言わないでくれ」
「ムードなんかとっくに壊れてるよ! この部屋のせいで!」
足の踏み場はもはやベッドの上しかない。男だろうが女だろうがここでそんな色っぽいことをする気になる人はいないだろう。
「仕方ないだろう。最近忙しくて、家の人間を呼ぶ暇もなかったんだ」
「だから自分でやるんだよ! 俺も手伝うから!」
瀬田は脱がされかけた服をもう一度着て、袖をまくる。こんなごみ捨て場のような場所で椿を暮らさせるわけにはいかない。瀬田は不満げな椿に指示を出して、部屋の掃除を一緒にすることになった。
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