未完成の恋(番外編)
◇
…ああ、やっちまった。
ムードもクソったれもなく九ヶ島に押し付けた自分の唇を、俺は右手でふさぎながら後ずさった。九ヶ島は信じられないものを見たような顔で俺を凝視している。当然だ。俺だって信じられないのだから。自分から九ヶ島にキスするなんて魔が差したとしかいいようがない。
…九ヶ島が、あんな態度を取るから悪いんだ。今までは俺がどんなに邪険に扱おうと気にせず迫ってきたのに、いきなり遠慮し始めるなんて。もう俺に飽きてしまったのかと不安になったって仕方がない。怖かった、九ヶ島の気持ちが俺から離れてしまうことが。
なんだかんだ言って俺はただ、こいつの気持ちを確かめたかっただけなのかもしれない。
「……帰る」
これ以上ここに留まれば恥ずかしさで憤死してしまいそうだ。俺はへたり込む九ヶ島に背を向けて、今度こそ本当に帰ろうとした。だが俺がドアノブに手をかけた瞬間、目の前のドアが勢いよく閉められた。後方から伸ばされた、九ヶ島の左手によって。
「な…何すんだよ! 手ぇどけ、──んんっ」
俺の文句は最後まで続くことなく九ヶ島の勢いだけのキスに止められてしまう。いや、奴が仕掛けてきたのはキスなんてカワイイものではなかった。
──食われる。
そんな冗談みたいなことを、半ば本気で考えた。どうにか避けようと奮闘するも、顔を九ヶ島の大きな手にがっちりガードされて動きようがない。すごい力だ。
「んっ、ん、……んぅ、んあっ」
侵入した舌が俺の口内で暴れ、少しの息つく間も与えてはくれない。酸素を求めて口を大きく広げるも、その分だけ九ヶ島の舌が押し入ってくる。
最初こそ必死で抵抗していた俺だが、舌に翻弄された身体からは徐々に力が抜けていき、ついには九ヶ島の思うがままとなってしまった。
身を任せ始めたの俺に気がついたのか、九ヶ島は片方の手で俺の身体をベッドまで誘導する。もちろんこの間も奴の唇は俺に噛み付いたままだ。さすがにベッドに押し倒された時に離れてくれるかと思いきや、奴は舌を差し込んだまま俺に馬乗りになりやがった。
「んあひまっ…! あめっ…」
この状況では、俺の言い分も意味不明な音の並びでしかない。九ヶ島は俺が止めたがっていることを知りながら、もううんざりするほど長い時間しつこく口づけてきた。
そうはいっても九ヶ島とのキスは気持ちよくて、俺の頭はだんだん麻痺し、身体も無抵抗になっていく。激しすぎる舌づかいのせいで脳が休まることはなかったが、大人しく九ヶ島の動きに従っている自分がいた。キスだけなら、などと絆された矢先、九ヶ島のゴツい手が俺のシャツの下を這っていることに気がついた。
「……んっ!」
九ヶ島の指が、手のひらが、俺の腹から胸へと辿っていく。あきらかに、何か意図がある動きだ。
──なぜだ。なぜいきなりこんなことを。最近の九ヶ島は、驚く程俺に何もしてこなかったはずなのに。前回この家に呼ばれた時だって、リビングで犬と戯れただけで終わった。過剰なスキンシップはあっても、けしてこんな、無理強いな行為はしてこなかったのに。
胸の先端に触れられ、俺の身体はビクッと跳ねる。そしてそれと同時に、あの時の感覚を思い出した。
「んっ、ああ…っ」
自分ではとうの昔に捨てたつもりでも、奴に抱かれた時の痕はしっかり身体に刻みこまれていたようだ。
九ヶ島に対する恐怖や怯えはもうない。だが下半身にはいっさい手出しされていないはずの自分が、感じ始めていることが怖かった。早く、早くなんとかして奴の動きを止めなければ。
「んー! ん〜〜っ!」
手や足を使って本気の抵抗を始める俺に気づいたのか、九ヶ島の動きが鈍る。奴は呻く俺の舌に深く吸い付いた後、ようやく俺から唇を離した。
「──っ好きだ、圭人」
「な…」
やっとキスをやめてくれたかと思えば、真剣な声色で俺を動揺させる。いつものような邪険な言葉は返せなかった。
「圭人も俺のこと好きだろ? なあ」
「な、なに─」
「俺が好きだって言えよっ…、圭人」
「九ヶ島……?」
誰なんだコイツは、本当にあの九ヶ島か?
今日の奴は俺に対して必死すぎる。あれだけ満々だったはずの自信をどこで失くしてしまったのか。
だけど今なら、俺は保ってきたプライドを崩せるかもしれない。俺だって本当はこいつが好きなのだ。もし好きじゃなかったなら、今頃死ぬ気で抵抗していただろう。
「俺は……、…俺も、九ヶ島が…」
俺は顔を背け手で目元を覆い隠し、九ヶ島の射るような視線を感じながら一つ一つ言葉を紡いでいた。
ところがその瞬間、予想外の事態が起こった。
「成瀬ぇー、圭人君って紅茶飲めるか…なぁ……」
突然、閉めきっていた扉を開き部屋に姿を現したのは九ヶ島姉。ベッドでもつれ合う俺達を見て、彼女は硬直し言葉を失った。
弟の友達であるはずの俺の服は乱れ、九ヶ島の手は俺の頬と胸。友人同士のじゃれつきに見える状況じゃない。確か、お姉さんは九ヶ島の性癖を知らないはずだ。
こ、これはもしかして、人生最大のピンチというやつじゃないだろうか。どうしよう、と九ヶ島を見るも奴も奴で固まってしまっている。
「あ、あの、これは違うんです。そうじゃなくて」
こうなったら、俺がごまかし通すしかない。俺のせいで姉弟関係にヒビを作るわけにはいかないのだ。
放心するお姉さんに俺の苦しい言い訳を聞かせようとした時、あろうことか彼女の目が虚ろになり、そのまま床に倒れてしまった。
「嘘だろっ…、おい大丈夫か!?」
慌てて駆け寄り身体を抱き起こすも、まるで反応がない。ショックが大きすぎたのか彼女は気絶してしまったのだ。どんなに激しく揺さぶっても、意識が戻る様子もない。
「だからあんだけノックしろって言ったのに……」
一向に目を覚まそうとしない九ヶ島の姉。焦る俺の耳に、九ヶ島の落胆したような声だけが響いた。
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