未完成の恋(番外編)
011
「…あれ」
俺が急いで昇降口に舞い戻ったとき、なぜかそこに天谷ひなたの姿はなかった。
「天谷くん?」
あたりに呼びかけみるも、反応はない。でも天谷のカバンは俺のと一緒にそのまま放置されている。これはよくない暗示だ。
「嘘だろっ…」
まさかこんな短い時間で、と思ったが他に理由が思い当たらない。天谷は何も言わず勝手に消えるような奴じゃないはずだ。よほどの緊急事態か、もしくは──
俺は持っていた傘を開き雨の中へと飛び込んだ。小走りで中庭や駐車場、体育館裏など可能性のある場所を見て回る。けれどこの雨のせいで、天谷どころか人っ子1人いない。これじゃあ目撃した人もいないだろう。
焦ってかなり遠いところまで来てしまったが、よく考えればあの短時間、そんな遠くまで来れるはずがない。それにもしかしたら天谷が戻ってきているかもしれないという期待を持って、俺は昇降口まで走った。
けれどそこに天谷の姿はなくて、俺の嫌な予感はますます強まるばかりだった。
俺が木月に知らせた方がいいかもしれないと思ったとき、耳に誰かと誰かが争うような声が聞こえた。きっと天谷だ。俺は間に合ってくれと願いながら、その声のする方に向かって一目散に走った。
騒音に向かって走る俺の耳に、声と一緒に激しくもみ合う音も聞こえる。非常にマズい。天谷の身に危険が迫っているに違いない。だが音を頼りに人気のない校舎裏に来た俺の足は、その光景を見た瞬間止まってしまった。
「テメェ…、自分が何したかわかってんだろうな!」
暴力を受けているのは天谷ではなく、どこか見覚えのある同学年の奴だった。そして信じられないことに、殴っていたのは天谷の恋人、木月圭人。すぐそばには肩を震わせた天谷がうずくまっている。おそらく襲われそうになった天谷を木月がいち早く見つけ、助けたってところだろう。
木月は強いと颯太が言っていたし、きっともう俺の出る幕じゃない。後は彼らに任せて立ち去ろうとしたそのとき、木月があのうざったい髪を目障りだとばかりにかきあげ、天谷を襲った男を見下ろし睨みつけた。
「………っ!」
その目ときたら、今まで何人もの化け物と呼ばれる男共をのしてきた俺の足を、いとも簡単に止めてしまった。人間が人間を見る目じゃない。
その場から動けなくなった俺の目の前で、木月は男に蹴りをくらわした。
「もう終わりかよ…手応えねえなあ!」
いつも颯太に会いにくるときの面影は、まったくない。俺から木月の目が見えるということは、木月からも俺が丸見えのはずだが、奴はまったく俺の存在に気づいていなかった。本気でブチ切れてる証拠だ。
もはや抵抗することが出来ない男の体を思い切り踏みつける木月。このままほうっておいたら殺してしまうんじゃないか、漠然とそう思った。木月くんは優しい人、と天谷は言ったが、一体これのどこが優しいんだ。
「お前、何でこんなことした」
地の底から湧き上がるような声で木月は男に尋ねていた。やけに冷静な口調がさらに恐怖心をあおる。
「たまってたのか。ヤれりゃ誰でも良かったのか」
「ち、違っ…」
男は口から血を流しながらも必死に否定していた。木月の顔つきがいっそう険しくなる。
「す、好きだったんだ、天谷のこと…誰でも良かった、わけじゃ…」
「同じなんだよ」
男の消え入りそうな声を、木月が身も凍るような声でさえぎった。そのまま男の胸ぐらをつかみ無理やり立ち上がらせる。
「自分が何したか、お前は全然わかってねえ! そんな奴が簡単にひなたに好きとか言うな!!」
めり込むんじゃないかと思うほど、拳を強く男の腹に打ち込む木月。男がまた、声にならない悲鳴をあげた。
「顔がよければ、“誰でも”良かったんだろ? ひなたのことたいして知りもしないくせに一方的に気持ち押し付けて、挙げ句の果てに強姦? …ふざけるなよ!」
止めなきゃならない、それはわかっていた。このままいけば取り返しのつかないことになる。怪我だけじゃすまないかもしれない。でもすでに木月の言葉とらわれていた俺には、なにも出来なかった。今までに聞いたことのない声、見たことのない目。マジ切れした木月はもはや誰にも止められそうになかった。
「ひなたにはな、テメェの知らない良いところがたくさんあるんだ! それをむちゃくちゃにするような真似は、俺が絶対にさせない!」
俺は最初、奴の豹変ぶりにただただ驚いていたが、木月の本質は何も変わってないことに気がついた。奴の天谷ひなたを思う気持ちは何一つ変わりはない。いつもの“優しい”木月くんだ。
「口で言ってわからねぇなら、体に教え込むしかねえな…!」
ただ1つ違っていたのは、鋭く光る苛虐に満ちた木月の目。いや、もしかしたらずっとこんな目を隠し持っていたのかもしれない。ただ見えていなかっただけで。
「歯ァ食いしばれや…ひなたが受けた傷はこんなもんじゃねえぞ!」
木月が拳を振り上げ男にさらなる危害を加えようとしたとき、細く弱々しい手がのび木月の腕を必死につかんだ。
「待って圭ちゃん! もうやめて…!」
「ひなた…」
木月の力強い腕は、天谷の細い腕に、びっくりするほど簡単に止められてしまった。
「それ以上やったら、その人死んじゃう…っ」
天谷はぼろぼろと涙を流しながら木月の腕にしがみついている。そんな天谷の姿を見た木月の手が、ゆっくりとおろされていった。
「……わかった」
誰にも止められないはずの木月の暴走は、天谷の手によって簡単に止まってしまったようだ。木月は天谷の頭をそっとなで、つかんでいた男を再び睨みつけた。
「今回はこのぐらいにしといてやるよ、でも次おんなじことしてみろ、………殺すぞ」
そのままつかんでいた手をひろげ、男が無様に倒れ込むのを見ようともせず、木月は天谷を抱きしめた。
「ごめんな、ひなた。…俺がもっと注意してれば良かった。お前を危険な目にあわせちまって…本当にごめんっ…」
「…圭ちゃんは悪くないよ。助けに来てくれて、ありがとう」
そうやって抱き合う2人はいつものバカップルに逆戻りだ。でも俺は、何でコイツらがこんなに相思相愛なのか、やっとわかった気がした。
やっと自由になった足を動かし、俺は木月らに背を向ける。ポケットから携帯電話を取り出し、地元民である颯太の番号にかけた。3秒たたないうちに颯太の声が耳に入る。
『もしもし成瀬? どうした?』
「……なあ、颯太。俺、なんかわかった気がする」
『は? なにが?』
「お前に頼みがあるんだけどさ、きいてくれるか?」
『……全然事態が飲み込めねえんだけど。まあいいや、言ってみろよ』
友人の急な頼みに、なんの疑問ももたず聞き入れようとするお人好しな颯太。自然と笑みがこぼれた。
「颯太、お前のバイク、かしてくれねぇ?」
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