last spurt
006
どう応えればいいのか、どうやったらヒチを傷つけずにすむのか。すべてが丸く収まる方法を考えていた俺の身体を、ヒチは突然抱きしめた。
「ナオちゃんが離れるなんて絶対嫌だ。そんなこと考えただけで、おかしくなりそう」
その言葉と比例するかのようにヒチの力は強かった。顔は見えなかったけど、必死なのは伝わってくる。ただヒチの口調からはそれだけでない何かを感じさせた。ヒチは、焦っているのだ。まるで時間がない、とでも言うかのように。
「ナオちゃんも俺を好きになってよ。じゃないと俺…」
耳の裏にヒチの唇が触れ、ぞくっとした。
「自分が自分じゃなくなる」
「……っ」
いつもよりずっと低い声、脅しともとれるその言葉に、俺は初めてヒチの言動を危うく感じた。
これは、いつものヒチじゃない。
「ナオちゃんお願い、俺のこと好きになって。俺、頑張るよ。絶対後悔させないし、絶対幸せにする。もう自分を制御出来ないんだ。このままじゃ…」
俺がどう答えるか、わかっているかのような口振りだった。ヒチは俺に懇願している。そして何故かはわからないが、自分を恐れ助けを求めているのだ。これが普通の告白じゃないことは確かだった。
しかしだからといってヒチの気持ちを受けることも出来ない。俺はトキが好きなんだ。
「…ごめん、ヒチ」
俺の腰にまわされたヒチの力がさらに強まった。俺はそんなヒチを優しく抱きとめ、精一杯の返事を送る。
「ヒチの気持ちは嬉しい。本当だよ。…でも駄目なんだ。俺には、好きな人がいるから」
酷かとは思ったが、ヒチに嘘はつけなかった。それになによりこう言っておかなければ、もし俺がトキと付き合うことになり、その関係がヒチの耳に入った時、さらにきまりが悪い。どちらにしろヒチを傷つけることに変わりはないのだが。
「そう…」
ところが俺の予想に反して、ヒチは特に驚いた様子もない。落胆はしているが、それだけだ。
「ごめんね、ナオちゃん」
「何でお前が謝るんだよ」
「……ナオちゃんを困らせたから」
ヒチはそう言って俺から身体を離すと、弱々しく笑いかけてきた。その表情は俺の胸をぎゅっと締め付ける。
「それに男からの告白なんて、嫌な思いさせた」
「そんなことない。男だからとか関係ないんだ。お前の気持ちもわかる。…俺の好きな相手も、男だから」
「……」
思えばこれが、初めて優哉以外の人に自分をさらけ出した瞬間だった。男に言い寄られるなんてごめんだ、と言っていたかつての俺はいないということを、ヒチにわかってほしかった。男だからという理由で断ったわけではない。気持ち悪いなんて、そんなこと微塵も感じてはいないんだ。
「…じゃあ俺、帰るね。時間とらしてごめん」
「いや、いいよ」
俺に背を向け歩き出したヒチを見て、やっと周りの状況を確認出来た。よくよく考えればいくら人気がないとはいえ、こんなところで男同士抱き合うなど恥ずかしいことだ。でもそんなことを考える暇もないほど、俺はきっと動揺していたのだろう。
「ヒチ」
「……なに?」
いつもはたくましいヒチの背中を見て思わず呼び止めてしまった俺は、言葉を必死で探した。けれどこの場に似合う台詞など、今の俺は持ち合わせてはいなかった。
「お前は、香澄をどう思う」
「レイ?」
とっさの質問だった。突飛な問いかけにも関わらずヒチは怪訝な表情をしつつもしばらく考え込んでから、言いづらそうにぽつぽつと答えた。
「ちょっと、嫌なとこもある、かな」
「何で?」
さらに間髪入れずに訊ねられたヒチの顔には、なぜそんなことを訊くのかという疑問符がいっぱいだったが、すぐに答えてくれた。
「だってレイの奴、ナオちゃんに酷いこと言うし…」
ヒチのその言葉に、俺は思わず面食らった。ヒチはトキほどではないが、香澄とはそれなりの友情をはぐくんできたはずだ。だからきっと今のは俺のためを思っての言葉に違いない。友達よりも俺が大事だと言ってくれたようで、素直に嬉しかった。
「でも、何でそんなこと訊くの?」
「…特に理由はないんだ。ありがとう、ヒチ」
ヒチは納得していない様子だったが、無理に追求してくることもない。ヒチのこういう空気を読んだ気遣いは助かる。真剣に何かを考え込むヒチの顔はトキと瓜二つだったが、混同することはない。この時点でトキとヒチは、俺の目には似通う点などない、まったくの別人としか写っていなかった。
そのことを再確認した俺はヒチの気持ちをもらって、トキに告白する決心をさらに固めていた。
[*前へ][次へ#]
[戻る]
無料HPエムペ!