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ストレンジ・デイズ



「先生、止めようとしてくれてありがと。怪我とかしなかった?」

「あ、はい」

特に何もしていないのにお礼を言われて逆に申し訳なくなる。黒髪に黒縁メガネ、中肉中背の市浦君はとてもデフとは思えない容貌の、笑顔が似合う青年だった。荒木のように誰もが目を奪われる美形というわけではないが、誰もが好印象を抱くであろう外見だ。

「市浦君こそ彼らを仲裁してくださって、ありがとうございます。助かりました」

「……先生、俺の名前知ってたの?」

「? ええ、それはもちろん」

デフだけではなく俺はここの学校の生徒、教職員の名前と顔は記憶済みだ。最初は顔だけが精一杯だったが、時間をかけて全員を覚えたのだ。不審者にすぐに気づけるように身に付けたものだが、市浦君のことはそうでなくとも覚えていただろう。

「先生すごい! 俺、先生の授業受けてないのに」

「受けてなくても生徒であることは変わりませんから。それに市浦君はとても頼りになるらしいですし」

ここは成績順でクラス分けが行われるが、C組とD組には天と地ほど差がある。D組はもれなく全員不良扱いだが、もちろんD組には成績が落ちた一般生徒もいるのだ。素行の悪い生徒と一緒のクラスになれば、いじめられたり引きずられたり様々な悪影響がある。その緩和材になっているのが彼、市浦あすまだ。
彼はデフと渡り合えるくらいの度胸を持ちながら、普通の生徒と付き合えるまともな感性も持っている稀有な存在だ。二年D組が安定しているのは彼のおかげでもある。そのせいで市浦君は教師達の間では有名だった。彼を入れておけばD組は安泰、というのがこちらの認識だ。

「頼りって、俺が?」

「ええ、みんな言ってます」

「ほんとかよ」

俺の褒め言葉に市浦君が嬉しそうに笑う。彼自身の素行は良いので風紀の世話になることはまずない。そのため今まで話したことはなかったが、とても素直ないい子だ。その太陽のような眩しい笑顔は、常日頃から悪い生徒に狙われる俺の心を浄化してくれた。

「そうだ先生、もうお昼食べた?」

「いえ……でもまだ見回りがありますので」

「じゃあ、見回りがてらでいいよ。一緒に来て。俺もちょうど行くところだったから」

「?」

市浦君が俺を引っ張って早足で庭に出る。そのまま広い中庭を突き進むと、そこには大きな車が木陰の下に停まっていた。特別に許可をもらいここでパンを売っている移動販売車だ。この辺りで有名なパン屋が出張販売しているらしく、市販のパンが校内でも安くで売っているにも関わらず、何人もの生徒が買いに来ていた。

「先生ここで買ったことある?」

「いえ、いつもは弁当を持参しているので」

「ちょっと待ってて」

そう言って市浦君は俺をベンチに座らせると、販売車の方へ走っていってしまう。「森のパン屋さん」という可愛い看板が立っていて良い匂いがしてくる。市浦くんはここの常連なのか、店員のお姉さんと仲良く話していた。

「先生、お待たせ」

市浦君から渡された袋は温かく、覗き込むと美味しそうなカレーパンが見えた。

「ここのパン、全部美味しいから。カレーパンは俺のお気にいり」

「あ、ありがとうございます。お代金を……」

「いいって、これは俺のお礼」

「それは駄目です! 受け取って下さい」

生徒からパンを奢ってもらうなんてできるわけがない。五百円玉を押し付けるようにわたすと、市浦君は渋々受け取ってお釣りをわたしてくれた。

「じゃ、代わりにこれあげる」

彼がくれたのはコルネのパンで、中はチョコではなくクリームだった。

「実はこのパン屋、俺の叔母さんがやってるんだ。だからたまに試作品をタダでくれんの。まだ商品として出してないやつらしいけど、食べてみてよ」

「先生がもらっていいんですか?」

「うん、でも感想ちゃんと聞かせてね。叔母さんに言っとくから」

市浦君が手を振る先を見ると、叔母さんらしいすらっとした女性が笑顔で頭を下げた。俺も慌てて深々と頭を下げる。

「先生、見回りあるんだろ。これなら歩きながらでも食べられると思って」

「でも、食べながら見回りというのは注意力散漫になりそうで……」

「先生、どんだけ育ちがいいんだよ。別に校則違反でもないし、俺も一緒に行くからさ。何か食べとかないと、午後の授業しんどいだろ」

市浦君に促され、俺はお腹がすいていたこともあって彼の言う通り歩きながらカレーパンを頬張った。外はパリパリしているのに中はもちもちで、カレーの具材のゴロゴロとした食感がしっかりある。

「美味しい…!」

「だろ? 焼き立てをすぐに運んで売ってるからまだあったかいし、結構昼休み始まってすぐは結構並んでるんだよ」

中庭でパンを売りに来ているのは知っていたが、これまで買おうとはしなかった。その事を後悔するくらい美味しかった。焼き立てのパンを食べたことはあるが、ここまで衝撃的な美味しさではない。特にカレーパンが好きというわけではない俺も、もう一度食べたいと思う程だ。

「先生、こっちも食べてみて」

自分もカレーパンを食べながら試作品のパンをすすめる市浦くん。いい匂いに誘われてその柔らかいパンを大きく頬張った。

「これも美味しい…! チーズクリームですか?」

「そーだよ。商品化してもいいと思う?」

「ええ! チョココルネしか食べたことないんですが、これは美味しいですね。売り出されたら毎日買いに来たいです」

「俺もひと口」

俺の手からパンを食べると市浦くんが満足気に頬笑む。お世辞などではなくこのパンは本当に美味しかった。お互い自然に笑顔がこぼれる。

「うん、これはまた食べたいかも。前のツナマヨパンは美味しいんだけど今一つパンチがなかったからなぁ」

「市浦君は毎日ここのパンを?」

「大抵はね。叔母さんところだからってわけじゃなくて、単に美味いから」

「確かに、今まで食べた中で一番美味しいです。それにこうやって歩いて食べるのもいいものですね」

「先生、食べ歩きとかしたことないの? 学生のとき、友達とかと」

「……ないですね、そういえば。先生、友達は少なかったので」

放課後は響介様の世話ばかりで友人と遊ぶ暇などなかった。もちろんそれは強制されたことではなく自分の意思だ。嫌々していたことは一度もない。

「じゃあ、良かったらまたこうやって一緒に食べようよ先生。こういうのってなんか、学生時代に戻ったみたいじゃん?」

現役学生の市浦くんの言葉に俺は声を出して笑ってしまった。生徒から優しい言葉をかけられて、こんなにも嬉しいとは。また明日も食べに来ると、俺は市浦くんに笑顔で応えた。


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