未完成の恋
005
「諦めるって、言ったくせに…」
昨日の嘘みたいにしおらしい九ヶ島を思い出し、俺は声を漏らした。
「信じたのか? めでたいのはどっちだ」
九ヶ島の言葉と冷たい目に俺は小さく息をのむ。奴は俺の両手首を壁に押し付け顔を近づけた。
「嘘だったのかよ……」
消え入りそうな俺の声に妖しく微笑む九ヶ島。それが答えだった。
「俺から逃げられると思うな」
間髪入れず乱暴にキスされる。俺の頭の中は一瞬で真っ白になった。
「んっ…んんッ……!」
必死に体をよじり抵抗するも九ヶ島の力には歯が立たない。そうしているうちにだんだんと力が抜けていく。
「九ヶ島っ…、やめっ……!」
いっこうにやめる気配のない長すぎる口づけ。無遠慮に侵入してくる奴の舌に翻弄される。手際よく自分のネクタイを外した九ヶ島は、すっかり力をなくした俺の両手首を後ろ手にキツくしめた。
「んんッ……!」
痛さと屈辱で目が潤む自分の弱さが嫌になる。やっと唇が離れたとき俺は酸欠寸前だった。
「はぁっ……お前っ、頭おかしいんじゃ、…」
さんざん舌を入れられ口の中には奴の唾液が。だが息を切らしているのは俺だけじゃなかった。
「圭人っ……」
九ヶ島がそっと俺を押し倒す。ヤられる。そんな言葉が脳裏によぎった。けれど九ヶ島はベルトには手をかけず俺のシャツのボタンを2、3個はずし首に吸い付いた。
「ああ……」
思わず甘い声がもれる。体はまだ九ヶ島に反応してしまう。俺は必死で抵抗した。
「いやっ…いや……」
奴から離れようと足と胴体を動かすも、九ヶ島の手によって引き戻されてしまう。
このままじゃ、駄目だ。これ以上続ければ俺は自分の気持ちに嘘がつけなくなる。
「強姦、するんじゃないのか……」
なかなかことに及ぼうとしない九ヶ島に俺はかすれる声で尋ねた。もういっそ襲ってくれた方がいい。乱暴に扱われればまた気絶するだろう。そうなればずっとこの想いを隠していられる。
「それは誘いか?」
あっという間にブレザーを脱いだ九ヶ島は、じらすようにゆっくりと俺のシャツの中に手を入れた。
「せっかくの申し出残念だが」
奴の手が俺の腰に回りシャツの中で抱きしめられる。その締め付けられる感覚にまた声をだしてしまった。
「セックスだけが、強姦じゃねえよ」
九ヶ島の言葉の意味がわからない。だがとりあえずヤられることはないようだ。とすれば奴はここで何を……。
「んぅ……!」
考え込んでいた俺は、またいきなり唇に吸い付いてきた九ヶ島に対処できなかった。
奴は俺の上唇をなめ顎に手を添え、噛みつくように口づける。一生終わらないんじゃないかというキス。長くて、つらくて、もどかしい。
「はぁッ……」
やっと俺の唇から離れた九ヶ島。これで終わったと安心する間もなく、少し濡れた九ヶ島の唇が俺のそこかしこに触れた。
「圭人…」
熱っぽい声で九ヶ島が俺の名を呼ぶ。顔が熱い。酸素が足りなくて息が切れる。
「──俺の名前、呼んでくれ」
いきなりの突飛な要求に、思わず俺の胸に口を添える九ヶ島を見た。奴の目は確かな色を含んでいた。
「なに言って……」
「呼べよ、圭人。成瀬って。…俺は気に入った奴しか、名前で呼ばせねーの」
九ヶ島の茶色い瞳が俺をとらえて離せない。
「お前は、特別だから」
九ヶ島の感情のこもった言葉に、頭がおかしくなりそうだった。特別、だなんて。きっと嘘。俺も他の奴らと同じ、遊ばれてるだけ。
「………呼んでくれねぇの?」
何でそんな悲しそうな声が出てくるんだ。お前絶対おかしいよ、九ヶ島。
「…それが駄目なら、俺のこと好きって言えよ」
「い、嫌だッ…!」
即答した俺に九ヶ島は一瞬むっとして、それから俺の身体にいきなり舌を這わせた。
「あ、あッ……」
じんわり涙が出てくる。もっと抵抗しなきゃならないのに、俺は何もできない。
「圭人」
「〜〜なんだよ!」
俺の名前を呼ぶな。俺にかまわないでくれ。お前といると、俺はおかしくなる。
「心臓、破裂しそうなくらいドキドキしてる」
俺の胸に耳をあてていた九ヶ島が俺の羞恥を煽った。一気に熱を持つ身体に嫌気がさす。
「し、してない!」
「してる」
さらに否定しようと口を開くが、九ヶ島は俺の腰に手を回し、手首を縛っていたネクタイを器用にはずした。そしてぐたりとした俺の腕を優しく引っ張り、自らの左胸にあてた。
「な? してるだろ」
俺の手のひらを通して九ヶ島の激しく大きい鼓動が伝わってくる。そのあまりの速さに俺は言葉を失った。
「圭人に触ってるとき、いつもこうなる」
「………なんで…っ!」
どうしてそんなこと俺に言うんだ。そんなの、まるで俺のことが好きみたいじゃないか。
「お前の言うことなんて、嘘ばっかり…」
何が本当で何が嘘なのか、わからない。九ヶ島は俺の腕を再び床に押し付け耳元に口を寄せた。
「俺は圭人が好き。それが真実なら、後は何もいらねえだろ」
そのまま奴は俺に口づけた。口元から熱が伝わってくる。すでに自由に動かせる手を俺は奴の肩に添えていた。俺の身体は九ヶ島に触れられて、ありえないぐらい興奮している。
「んぅ……」
聴こえるのは雨の音、考えるのは九ヶ島のことだけだ。
俺はいつの間にか九ヶ島の背中に手を回し、自分から奴に口づけていた。九ヶ島もそれに気がついたのか俺の上半身を起こしてさらに深くキスをする。俺の口内には九ヶ島の舌とどちらのものかわからない唾液が満ちていた。
自分の気持ちに嘘はつけない。奴の真意がどうであろうと、俺は九ヶ島が好きだ。そして九ヶ島にも、俺のことを好きになってほしい。
「…ンぁっ……成瀬っ…」
「圭人…っ」
九ヶ島が俺の名を呼ぶたび身体がうずく。奴のキスに応えることに必死だった俺は、誰かがゆっくりと近づいてきたことに気づかなかった。
「──圭、ちゃん……?」
崩壊の足音、ひなたを裏切り自分を優先させた俺のもとに、それは確実に忍び寄っていた。
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