未完成の恋
002
「先輩…あの、手が……」
別人のような目をした颯太先輩は俺の両手首を机に縫い付けていた。その強すぎる力に俺は抵抗もできない。
「…お前さ、何でこんな状況になっても、逃げない上に叫びすらしねえの」
声が口調が、先輩のものじゃないみたいだ。
「なんで、逃げる必要が…」
どうしてそんなこと言うんだろう。先輩から逃げる理由なんて、どこにもない。
「その安心が鬱陶しいんだよ」
冷たく尖った声。鬱陶しい、という言葉だけが強く響いた。
「…俺のこと、嫌いになりましたか」
毅然な態度で尋ねたが、俺は内心びくびくだった。先輩に嫌われたら、俺は……。
「俺、謝ります。だから俺のことっ…嫌いにならないで…」
言い終わる前に先輩の顔が迫ってきて、俺は慌てて顔をそむける。そんな俺を見て、颯太先輩は口を開いた。
「悪いけど俺、慰めとかで好きでもねえ奴にキスできるほど、優しくねえよ」
「え……」
颯太先輩の言葉の意味がうまく理解できない。慰めじゃないなら、俺とのキスはいったい何だって言うんだ。
「あのキスは、俺がしたかったからした。お前のためなんかじゃない」
呆気にとられ動けない俺の目の前で、先輩はネクタイを外した。あっという間にそれで手首を後ろ手にしめられる。デジャヴのような光景に俺は混乱するだけだった。
「圭人」
俺を呼んだその声がこんなにも愛おしそうじゃなかったら、俺は危機感を持ったかもしれない。
「───好きだ」
反応する前に口をふさがれた。必死に顔を動かすが手は縛られていて派手な抵抗はできない。俺は先輩の為すがままだった。
「んんっ…あ、んッ……」
何秒、何分、時間さえわからなくなるほど長く、深く、先輩は俺に口づけていた。唇を舐められ舌をいれられ、あの時のキスとはまるで違う激しいものだ。
嫌な水音をさせて、先輩は名残惜しそうにやっと口を離す。俺はすでに肩で息をしていた。
「なんで…、こんなっ……」
荒い息と共に俺は先輩にすがるように尋ねた。先輩が先輩じゃないみたいで、怖い。
「好きなんだ、圭人」
先輩の告白に俺は言葉を失った。そんなはずないと自分に必死で言い聞かせるが、今されたことを考えればそれも難しい。
「…アイツには、成瀬には、絶対にわたさない…!」
我を忘れたかのように俺に覆い被さってくる先輩。彼に初めて恐怖を感じた俺はとっさに自由になっていた足で先輩の体を蹴り上げた。
横になった体勢からでは大したダメージにはならず、先輩は少しよろけただけだ。
「あ…、ごめんなさ…」
とはいえ先輩に暴力をふるうなんて、絶対にしてはいけないことだ。俺は手が不自由ながらもなんとか上半身を起こし、うつむいたままの先輩のを様子をうかがった。
「…颯太先輩、あの、俺も先輩のことが好きです。でもそれは、恋愛感情とかじゃなくて、1人の人間として尊敬してるんです」
か細くなりそうな声を必死ではり、俺の答えを先輩にぶつける。
「──だから先輩の思いに、答えることは出来ません。……俺は、九ヶ島が好きなんです…」
颯太先輩の気持ちに、俺はまったく気づかなかった。いまだに信じきれないくらいだ。きっと知らずに傷つけたこともたくさんあるだろう。
「ごめんなさい、せんぱ……っ!」
頭を乱暴につかまれ後ろに倒される。痛みが脳から内側にはしった。
「なんで、なんでだよ圭人…!」
今にも泣きそうな声。まるで先輩らしくない。
「俺の方が、ずっと前から圭人を好きなのに。大切すぎて、手も出せなかったのに…!」
勢いよくシャツを引っ張られ、ボタンが簡単に外れる。俺はその様子を見ながら、ただ縛られた手の痛みを感じていた。
「…なんで、成瀬を好きになんだよ。アイツがお前に何したか、わかってんのか」
それは小さく冷静だったが、悲鳴に近い声だった。先輩の手が俺の肌に触れ、優しくなでられる。そのたび俺の体はビクッとはねた。
「無理やりが好きなら、それでもいい」
そう言った瞬間、先輩は俺の首筋に吸い付いてきた。鎖骨、胸、と痛いほどの口づけを何個も落としていく。
「あっ…!」
先輩の手がベルトにかかって初めて、俺の顔は真っ青になった。それまで、先輩が俺を傷つけるようなことはしないと思い込んでいたのだ。
「いやっ…嫌です、放してください! 先輩! 颯太先輩!」
俺の声は届かない。そのままズボンを膝まで下げられた。
「ああっ…」
泣かない、と決意したはがりなのに、俺の目からは涙がぽろぽろ溢れだしてきた。先輩だけは、何があっても変わらないと思っていた。ずっと変わらず俺のそばにいてくれると。でもそれは、俺の思い上がりだったのだろうか。
流れる涙も、助けをこう悲鳴も、颯太先輩には届かない。
先輩はもう、俺を見てはくれない。
俺にはそれが、何よりも悲しいことだった。
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