未完成の恋
003
「圭人?」
微動だにしない俺を不思議に思ったのか、颯太先輩が近づいてくる気配がした。
「天谷…!」
俺の目の前に立つひなたを見て、先輩は驚きの声をあげる。うつむき表情の見えないひなたの髪や制服は、少し濡れていた。
「阿見先輩…、圭ちゃんと2人きりにしてくれませんか」
あっさりと、ひなたが俺の名を口にしたことに驚いた。二度と聞きたくない名前だと思っていたのに。
「…わかった」
先輩が俺の横をすり抜けて雑に靴を履き、ちらりと心配そうに俺を一瞥してから出ていった。
「入っても、いい?」
「あ、ああ……」
俺は動揺しながらやっとそれだけ言うと、後ろに下がり、ひなたが座れるスペースを作った。彼は傘をたたんで、カーペットのしかれた固い床にちょこんと正座する。
しばらくの間、沈黙が続いた。俺はいたたまれなくなって何度も口を開きかけたが、逆にひなたを傷つけてしまうのではないかと思い何も言い出すことは出来なかった。心の内では今すぐひなたにすがって許しを乞いたかったけれど、許して、なんて自分勝手なこと口が裂けても言えなかった。
「ごめん…っ」
謝罪の言葉が聞こえて、俺は自分が無意識に口に出したかと思った。でも、それは間違いだった。
「ごめんっ、圭ちゃん…!」
謝っているのは俺じゃない、ひなただ。涙をぽろぽろこぼしながら俺に頭を下げる姿に、俺は呆気にとられた。
「…ちょ、ちょっと待て、なんでお前が謝るんだよ!」
必死に腕で目をこするひなた。突然泣き出した彼に俺はおろおろするばかりだ。
「だってっ……僕、圭ちゃんにあんな酷いこと…!」
ひなたはまるで自分をコントロールできない子供みたいに泣きじゃくる。わからない、なんでコイツが謝ることがあるんだ。酷いことをしたのは、俺の方なのに。
「ごめんね、圭ちゃんっ…許してなんて、言えないけど……っ…僕は圭ちゃんと…」
「………?」
あまりにも泣きすぎたせいか、最後は言葉になっていなかった。予想外の事態に俺はまだ状況を飲み込むことが出来ない。
「圭ちゃんは、僕のために…っ、僕のことを思ってッ…」
ひなたの思わぬ言葉に俺は彼の肩を思い切り掴んだ。
「それ、どういうことだよ…!」
俺が揺さぶった衝撃でひなたの目から大粒の涙が落ちる。俺はひなたに逃げるようにして目を伏せられた。
「今日…九ヶ島先輩が…」
九ヶ島、今はその名を聞いても恐怖心や憎しみはわいてこない。あるのは罪悪感を伴う痛みだけだ。
「先輩が、…僕の家に来たんだ。それで圭ちゃんとのこと、全部話して、謝ってくれた」
「…九ヶ島が?」
話したって、何をだ。俺を脅してたってことを、か?
「圭ちゃんはなにも悪くないのに、僕…圭ちゃんに酷いこと言った! 取り返しのつかないこと、を」
肩を震わせまた泣き出しそうになるひなた。なおも俺に何かを伝えようと嗚咽をこらえながらも口を開く。
「圭ちゃんは…いつも僕のために、色んなもの捨ててくれたのに……」
「す、捨てた、って…」
ひなたのために自分を犠牲にしたことなんてない。第一、たとえ何を捨ててたって、ひなたからもらったものの方が多いに決まってる。
「だって圭ちゃん、僕のために高校まで変えてくれて、いつも僕を守ってくれて…、でも僕は、圭ちゃんに何も返してあげられてない……っ」
「………」
なんで、そんな風に言うんだよ。俺はそんな立派な人間じゃない。俺はただ、お前に固執してた弱い人間だ。
「…俺は、お前をずっと束縛してただけだ。自分でも、知らないうちに」
俺自身にすら見えない執着心が、俺をここまで駆り立てた。それをあっさり断ち切った俺は、ひなただけじゃない、自分自身までも裏切ったんだ。
「どうして、そんなこと言うの…?」
けれどひなたの考えは違った。まともに目を合わせることの出来ない俺を、驚いたような表情でまっすぐ見つめてくる。
「僕、いじめられてたんだよ? 中1のとき、みんな僕を無視してて毎日ほんとにつらかった。だから圭ちゃんが一緒にいてくれるようになって、すごく嬉しかったんだ…」
ひなたの優しい声に誘われるように、俺はゆっくりと顔を上げる。今言われたばかりの言葉が信じられない。
俺は、お前の重荷じゃなかったのか?
「圭ちゃん、本当にごめんね…」
ひなたの声が、俺の心に刻み込まれる。謝るのは、俺の方なのに。ひなたは何も悪くないのに。
俺は自分の肩にひなたの身をあずけさせ、その細い体を抱きしめた。もう二度と手放さないように、そっと、強く。
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