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シャンパン
04

「スモーカー君」

呼びかけた本人でなく、ななしが振り返った。
声にならない悲鳴が溢れ出ている。ぼろぼろと遠慮無しに頬を濡らす涙を何度も何度も手の甲で拭き取っていたのが、くしゃくしゃな目元ですぐに分かった。
何があったか直接は目撃していないが、勢いよく食堂を出ていくスモーカーと手を引かれるななしを離れた廊下で見つけた。資料を渡したばかりのクザンに形式的な挨拶を残して、ヒナは小走りに二人の後を追った。途中、食堂の様子を横目に見れば、騒然としていた。散らばったテーブルや椅子、倒れた同期たち。
スモーカーが何をしたかは容易に想像できた。ただ彼をそうさせた要因は計りかねた。
その時は。

「っ、ひっ…ヒナっ…」

肩を上下させるななしは唇が震えていた。

「スモーカー君、待ちなさいっ!」

葉巻の香りが鼻をくすぐる。彼はやはり振り向かない。
黙々と進む足音は乱暴で苛立ちが露だ。

「スモーカーく…」
「うるせェっ!」

びりりと窓が震えた。廊下を往来する海兵たちの視線が一斉に彼へ注がれた。
尉官程度の上官たちでさえ、神経が張りつめるほどスモーカーの一声は強かった。
自制ができていない。
ヒナは手を伸ばせば届くななしの泣き顔と敢えて距離を置いた。彼女の瞳は戸惑いながらもスモーカーとヒナを何度も行き来した。今のスモーカーは何をしても無駄だ。彼自身が落ち着く術を知らないのだから。
普段の苛立ちや反抗的な姿勢、自分勝手な行動の中でも、スモーカーは一定の自制心を持っていた。演習では相手に怪我をさせても打撲程度であるし、上官を無視しても殴ることはない。同じ士官生に関しては手を出す価値もないと見なし、立ち去るのが彼だった。
だからこそ、食堂での光景は異常であり、そこまで彼を追いつめたのは、何であったか。
ななしが泣いていた。
ヒナでさえ一度も彼女の涙を見たことがなかった。

「す、スモー、カー…」
「お前も黙ってろ」

感情を弄ぶスモーカー。彼はとにかく廊下を進み、階段を上がり、人気のない教室の前で立ち止まった。ななしがスモーカーの背中に突っ込む。

「おい、ヒナ」
「……」

葉巻の先の火は消えていた。呼ばれてヒナは彼の言わんとする意図を汲み取った。
スモーカーはななしの腕を放した。ヒナはすかさず彼女の両肩を引き、彼と距離をとった。彼は無言で教室に入り、ドアを閉めた。

「ななし、離れましょう」
「で、でもっ…」
「離れてあげて」

真っ赤な目がヒナを見上げた。彼女が懇願するのと同時に、教室から響いた音にななしはびくりと体を縮ませた。

がしゃん、がしゃん。
やり場の無い彼の感情が陽光降り注ぐ教室で形になり、音になる。そうすることしか今の彼には方法がないのだ。
不器用というよりも、彼は正直だ。
ヒナはななしの肩に置いた両手に力を込めた。

「ごめん、ヒナっ…スモーカー!!」
がしゃん、がたん。
ななしは涙を拭く。そして、ヒナの手からいとも簡単に自由になると、教室のドアを開けた。ヒナが止めようと一歩足を踏み出したときには、ななしは勢いよくスモーカーの体に飛びついていた。

「っ!?」
「スモーカー!」

驚いたのはヒナもスモーカーも同じで、机も椅子もぐしゃぐしゃになった教室内にななしの声がよく響いた。

「違うの!スモーカー、違うの…私…私…」

彼女はスモーカーに抱きついたまま、首を振った。また涙が目尻を伝って床に落ちる。
スモーカーは掴んだ椅子のやり場に困っていた。

「私、嬉しくて…スモーカーが、スモーカーが、私の気持ち…守ってくれたのが、嬉しくて…嬉しくて…う、うぇしく…うぇぇ」
「……」

ななしの子どものような泣き顔はヒナの場所では見えなかったが、スモーカーの眉間にあった深い皺が徐々に緩まっていくのを彼女ははっきりと認識できた。廊下で纏っていた生々しい苛立ちも引いていく。代わりに生まれたのは戸惑いのようだ。

「…なら、泣くな」
「うぅー、ごめん、スモーカーぁー」
「泣くなって。ったく…」
「分かってるよ」
「じゃあ、泣き止め」
「そんなこと言っても…スモーカーのバカぁーうわぁー」
「ちょ、お、おいっ」
ぎゅうぎゅうとスモーカーに抱きついた状態でななしは声を上げて泣いた。スモーカーの戸惑いは動揺に変化し、いつの間にか片手の椅子を置いていた。助けを求めるように彼がヒナを見れば、ヒナは肩をすくめて微笑み返すだけだ。仕方なく彼はななしの頭を少し乱暴ながらも撫で、落ち着くのを待つしかなかった。
散らばった教室内に難しい顔のスモーカーと泣きじゃくるななし。

「スモーカーぁ」
「なんだ、ななし?」
「ありがとう」
「うるせェ。別にお前のためじゃ…」
「知ってる。でも、ありがとう、スモーカー」

彼が彼女のどんな表情を見たのか推測の域を出ないが、かすかに彼の頬に赤みがさしたのをヒナは見逃さなかった。
ななしにとってのスモーカー、スモーカーにとってのななし。おそらく、まだまだ自覚するのは先の話になるのだろう。
ヒナは廊下で一人、ため息をつき、髪をかきあげた。

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