初まった
わたしは今まで、目立つ事無くひっそり生きてきた。
趣味で始めたテニスにハマり、中学生になってからは女子テニス部がない関係で男子テニス部のマネージャーとして入部したけど、コツコツ地味に仕事していたお陰で嫌がらせなどを受けることはなかった。
これこそ日常、これこそ平凡。わたしはこの暮らしに満足していた。
なのに、
「…ごめんな、はる子」
「え、」
「ごめん、はる子、ごめんね…」
なんなんだ、この状況は。
簡潔に説明するなら驚愕。少し詳しく説明するなら、わたしの前で初めて両親が涙を流していた。謝られているものの、わたしにはなんのことだかさっぱり。
「お母さんとお父さんね、もうふたりでやっていけないの。」
「離婚、することにしたんだ。」
そんな涙ぐんだふたりにわたしは嫌だなんて反抗出来るわけもなく、コクリと一回浅く頷いた。
「わたしは、どうすればいい?」
話の流れはわかっていた。母についていくか父についていくか聞かれるに違いなかった。
「はる子は、お母さんについていってくれ。話あって、決めたんだ。」
「年頃の女の子だから、その方がいいと思ったのよ。」
「うん、わかった」
わたしは泣かなかった。悲しくない訳ではないけれど。自分はなんて、冷たい人間なんだろう。頭が驚く程正常に機動している。
「それでね、お母さんと一緒に大阪に来てほしいの。」
「えっ」
流石にそれには驚いた。そういえば母方のおばあちゃんは大阪に住んでいる、なんて前にぽつりと聞いた事があるのをふと思い出した。
問題はそこではなくて、わたしが今住んでいるのは神奈川県。大阪に行くとなるとやはり転校なんかをするのだろうか。
「お友達とお別れになっちゃうけど、ごめんね。お母さんのわがまま聞いてください。」
泣きながらそう悲願されては、どっちかというとお母さん子だったわたしは肯定せざる終えなかった。
*
「幸村、」
次の日。
結局涙一滴零すことなく迎えた登校日。休み時間になると、わたしは次期部長である幸村を訪ねた。
「珍しいね。伊藤が俺のところに来るなんて。なにかあったのかい?」
「うん。わたし転校する。」
そう淡々と告げると、幸村は目を少し見開き、また微笑を浮かべた。わたしも彼のように冷静且つこんな綺麗な笑みを浮かべてみたいものだ。とかなんとか考えてみる。
「随分急な話だね。」
「父と母が離婚するみたいでさ、いきなりで、わたしもびっくりしたよ。」
そういうと幸村部長は悲しげな顔をした。わたしでもそんな顔しなかったのに。
「…そうか。家庭の事情なら仕方ないな…。
伊藤はよく働いてくれた。あの真田も一目置いていたのに…残念だな。」
「わたしも真田にはよく世話をしてもらった。とても、感謝してるよ。少し堅い人だけど。」
「ははっ
…それに、赤也も」
その単語に心臓がどきりと跳ねた。
赤也というのは、一つ下の切原赤也くんの事だ。教室が離れているので部活以外の彼の姿はあまりしらないけど、だけど、テニスをしている時のあの楽しそうな人を引き付けるプレー。
わたしは彼が好きだった。そしてきっと彼も。
「わたしは、もういい。もう会えないなら、忘れることにする。
…それに、あんな純粋な子にわたしみたいな冷たい女は合わないよ」
そう言葉を零すと同時に、僅かに涙腺が緩むのを感じた。
恋する乙女は大変だ、とか思ってしまう。知らぬ間に彼の事をこんなに想っていたなんて。
「…俺は何も言わない。
だけど、赤也はどうするだろうね。」
そういった幸村の怪しい笑みが頭から離れぬまま、テニス部の(勿論赤也くん以外の)全員に転校を報告して回った。立海のテニス部は仲が良いから、一応は全員と面識がある。
そんな面倒な事をする理由、それは変なところで赤也くんにばれてしまうのを防ぐためだ。勿論口止めはした。
「次は、橋本くんか」
部員の表を片手にそう呟く。1年は橋本くんが最後だ。
一番大きな難関でもある。橋本くんは赤也くんと仲が良く、同じクラスなのだ。
そーっとクラスを覗くと、幸い赤也くんはいなくて橋本くんが何かのプリントを焦って解いていた。
「橋本くん!」
片手を上げて呼ぶと、パッと顔を上げて笑いかけてくれた橋本くん。赤也くんとは正反対のタレ目が、細く歪む。
「伊藤先輩!
どうしました?」
「わたし転校する。」
「…え!ああ、うそっ、今日エイプリルフールじゃないっすよ?」
橋本くんらしい発言につい笑ってしまう。暗い雰囲気にしたくはなかったから、口元と目元を意識しながら話を続けた。
「嘘じゃないよ。
両親が離婚することになって、大阪に引っ越すの。」
「え…そんな急に…。
あ、先輩!赤也には!?」
「…言わないつもり」
「どうしてですか!」
橋本くんが叫ぶものだからクラスのみんながこっちを見る。それに気付いた橋本くんは控えめにわたしの腕を掴んで走りだした。
それとともに鳴ったチャイムもお構いなしに、橋本くんは走っていた。廊下の向こうの赤也くんと目が合った気がしたけど、わたしは気付かないふりをした。
…ついたのは屋上。
「なんで、赤也に言わないって本当なんですか?」
「うん、言わない。」
「どうしてですか!俺、あいつに言うなって言われてたけど、あいつ、」
「うん、わたしも」
「じゃあ尚更ですよ!あいつは遠距離なんて気にしないはずです!あのバカですよ!?先輩に寂しい想いは絶対にさせないはずだ!」
「…」
橋本くんは本当に赤也が大好きなんだなあ、これならなんだか安心だ。
表面は哀しげな顔色を浮かべつつ、わたしは内心そんな事を考えていた。
「…わたし両親が離婚ってわかっても、転校が決まっても涙も何も出なかった。」
「…え」
「わたしは橋本くんが思ってる程、暖かい人じゃない。」
更にわからないような顔をする橋本くんに、わたしはさらに叩きつけるように言った。
「わたしには赤也くんは純粋すぎたの。釣り合わないんだよ。大好きだけど。」
そう言って背を向ける。だってなんだか目の奥がじーんとして、鼻が痛くて変な感じ。
…どうして涙腺は、いらないときばかり緩むんだろう。
「…後悔、しませんか」
「しない」
「絶対、絶対絶対、しませんか」
「絶対にしない」
確かめるように聞いたあと、橋本くんの声が止んだのと涙を耐えたのを感じて、振り替える。
「!」
「それなら俺は何も言いません。先輩が決めたなら。赤也にもいわないでおきます。
…それでは、俺は戻ります。」
彼は泣いていた。
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