春の兆し
暦の上では季節はとっくに秋のはず。
けれども夏の暑さはまだまだ抜けず、もともと少ない授業へのヤル気をジリジリと焦がして奪っていく。
そのため、切原赤也は大層不機嫌だった。
「暑いのに火のそばに居なきゃならないって…マジでダルイ。」
家庭科、調理実習の時間――豚汁を作るということなのだが残暑が残る中、そこかしこで点けられたガス台の炎が更に辺りの気温を上げていく。
窓を開けても生憎、風の無い今日は気持ち良く空気が流れない。
肌に触れるのは熱を孕(はら)んだ空気だけだ。
「っつ!痛て…」
授業が嫌だ嫌だと、そんな事ばかり考えていたせいか、握っていた包丁で自分の指を切ってしまった。
そんなに深くは無いが切れ味のいい包丁のお陰でスッパリと口を開いた傷口からは真っ赤な血が勢いよくとはいかないまでも、ダラダラと流れ出した。
指先から離れた血は白いまな板の上に落ち、彼が切っていた白い豆腐の上にも落ちた。
「うわ、やべっ!」
何か言われる前に保健室へと避難した。
その最中、傷口は乾いてしまったのだが一応、絆創膏は貰っておこうと、おざなりなノック音が鳴り止まぬうちに無遠慮(ぶえんりょ)にドアを開いた。
ほかの教室と変わりなく窓が開いており、その半分はそばに植えられた木のせいで陰っており、そこにこの部屋の主である保健医が居た。
行儀悪く窓枠に腰掛け、いつもはキッチリとしめている白衣とブラウスのボタンは暑さ故か、無造作に外され、はだけている。
健全な男子の心を刺激するには十分だった。
色気を感じたり、女性であることを認識したり、異性として今まで捉えた事は無かった。
「先生って、こんなに色っぽい人だったっけ…」
今まで目にしていたのは禁欲的で地味な保健医。
しかし、今の彼女は…
『ん……』
長い睫(まつげ)が震え、その動きでハッと我に返り、慌てて数歩後ろに下がった。
気付いたら、いつの間にかキスも出来そうなほど顔を寄せ、覗き込んでいた。
起きてしまったのかと焦ったが、保健医は少し頭を揺らしただけだった。
それにホッとしながら彼は目当ての物を静かに探した。
「(少し残念だと思ったのはなんでだ?)」
キィと小さな音を立てて薬品棚の戸を閉じ、再度、近寄った。
保健医は相変わらず眠りの海を漂っている。
「(職に就く人間のくせにこれは違反行為だろうが、)」
そう感じたが、かといってこの事を誰かに告げる事などしない。
惜しいと思う。
下手をすればこの学校から数日でも姿を消すかもしれないのだ。
もしかしたら自分だけが知っているかもしれない、素の保健医の姿。
「(俺だけが知る…ね。)」
なんて良い響きなのだろうか。
身体がゾクゾクする。
「本当は起きてほしいけど…まぁ、話をすんのは明日でもいっか。」
保健医はどんな反応をするだろうか。
それが楽しみでならない。
「楽しみっスね。」
切原は小さく小さく呟いてから、保健室を後にした。
熱気に満ち溢れている廊下を歩くのは不快だが今はどこか、フワフワとした柔らかく暖かいものを胸に感じている。
この胸の内に宿ったものは夏の照り焦がすような暑さではなく、春のような優しい暖かさと似ている。
それを感じているだけでこの茹だるほどの暑さも気にならない。
悪戯を計画する子供の心境か。
ピッと傷口に絆創膏を張り、廊下に備え付けられたゴミ箱にゴミを投げ込んでから、切原は嬉々(きき)とした足取りで家庭科室へと戻った。
彼はきっと明日になれば気付くだろう。
その名前に。
春の兆し
胸に広がる暖かさは恋という春の季節
** END **
#2008.2.26
夢コンサンプル
3月『恋の兆し』
協力:セラ
Special Thanks!
「ひっつめ」の意味:後頭部に引き詰めるようにして結うこと
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