act.40…右手の異常
中村は俺の世話だけじゃなく、テニスや勉強も教えてもらったりした。
それは今でも賜物だ。
「はぁ!」
中等部では全国大会まで進めたし、なにかしら開かれる大会に参加しては優勝するくらいにまでなったのだから。
「っらあ!」
『精が出ますね?』
壁に当たり、バウンドして戻ってきたボールを掴んだ。
振り返り見るとそこには蓬莱がいた。
「こんな早くにどうしたよ?」
『窓から誰かさんが見えたものですから。』
現在、朝の6時。
仁王との電話を終えた俺はきちんと休むことが出来ず、早く起きた。
うちの家の構造からして、俺の自室や客室からテニスコートや庭が見えるようになっている。
恐らく俺の声やインパクト音で目が覚めたのだろう。
「起こしたか?」
『ううん、普段はもう起きる時間だったから丁度いいの。景吾の家にいると怠けちゃってダメね。』
蓬莱は体の筋肉を丁寧に伸ばし、準備運動を始めた。
怠けるというのはよく言えば寛(くつろ)いでくれているということだ。
俺としては嬉しい。
『一緒してもいい?』
「あ、あぁ、かまわねぇよ。」
『やった!』
俺の返事を聞き、嬉しそうにコートに入る蓬莱はまるで子供だった。
蓬莱ならいつまでもその可愛らしさを持ちつづけるんだろうな、なんて思った。
「久しぶりだな。」
『そうだね。景吾とは2回目かな?』
軽くラリーを始め、次第に力んでいた。
もちろん、蓬莱から仕掛けてきた。
「蓬莱、おまえ喧嘩っ早いだろ!?」
『そんなことはないよ?』
「なに本気にしてんだよ!」
『それは景吾もでしょ?』
お互いを意識し、準備運動代わりにしていたラリーと言うにはあまりに過激なものとなってきた。
「くそっ、」
『頑張れ〜!』
「こんの怪力女!!」
蓬莱から打ち返されてきたボールは回を増すごとに重くなる。
負けずと打ち返すが、人間には限界がある。
「俺だって男だ!!」
『ッ、』
全身全霊の力を込めて返したボールは蓬莱のラケットを弾きとばした。
やった。
心の中でガッツポーズをとった。
『あちゃ〜…油断した。』
「ふん、いつまでも黙ってられるかよ。俺が今テニスで目指すは蓬莱を越えることだからな。」
『そうなんだ?』
「俺は高校テニス界では敵なしなんだぜ?」
そうは言うものの。
目の前の女に勝てずにいるんだから情けないもんだ。
『なんたって跡部景吾だもんね。』
「跡部は関係ねぇけどな?」
そう言うと蓬莱は“自分の志しが強さを決めるからね”なんて言って笑ってた。
俺はその時気づいた。
蓬莱の右手の震えに――。
「蓬莱、おまえの右手…」
『あぁ、これね?最近テニスするとこうなるの。武者震い?』
「意味わかって言ってんのか?」
『わかってるはず〜』
その右手の震えについて特には追求はしなかった。
本人は武者震い(心が勇みきって体が震えること)だと言い張るし。
『よし、もう一回ラリーしよう?負けないからね!』
「望むところだ。次だって俺が勝つ。」
『え〜、したら本気でいかないとまたポイント取られちゃうなぁ。』
蓬莱は口の端を持ち上げて笑いながらラケットを左手に持ち変えた。
そのとき初めて彼女が両利きであることを知った。
「おま、左も!?」
『うん、ごめんね〜?私、両利きなの。』
「聞いてねぇよ!!」
『すべこべ言わない!』
強引に蓬莱はラリーを開始した。
普段は右を使うらしいが左もかなり鍛えてたそうだ。
左手は右と同様…いや、それ以上の技術とパワーを兼ね揃えていた。
「なんで左もなんだよ?」
『お母さんにテニスを始めるときに左手を使いなさいって言われたの。でも、左って使いにくくてね。』
「まぁ、普段右手を使ってたらそれは当たり前だよな。」
『お母さんが監督してたときは左、見てないときは右でテニスしてたの。』
「右利きプレーヤーに対して左でやるのはやりにくいよな。」
『なんで左でやりなさい、って言われたか未だにわからないんだよね〜…』
会話をしながらラリーを続けたせいで気が抜けていたのかもしれない。
俺が球を返し、蓬莱を見たときだ。
構えていたあの姿勢でわかったが、動けなかった。
蓬莱は優しくボールを包むように打ち返した。
それはドロップショットの一種で“華蝶風月”と呼ばれるもの。
自然の美しいと言える景色に対する言葉である花鳥風月と掛けてあるとか。
蓬莱から解き放たれた蝶である球は柔らかな風に後押しされ、静かに地面である花に着地する。
蜜を吸う蝶はその場から動かない。
それが彼女の有名な技。
『華蝶風月、』
「はぁ、やられたぜ。」
『大会以外の人前ではあまりやらないの。』
「貴重な技を見せてくださりありがとうございます。」
『いえいえ〜?』
あまりに美しい景色(軌道)であるため、時が止まったかのようで見入ってしまう。
しかし、気づいたときにはポイントをとられているという悲しい結末に至る。
負けず嫌いめ。
『あー!良い運動したぁ!!』
「シャワー浴びてこいよ。」
『え?景吾先に入りなよ?』
「レディーファーストだ。」
なんてやりとりをしていて埒があかない。
女にとって汗をかくことほど気持ち悪いものはないという。
だから譲ってやってるのに。
「わかった。こうしようぜ?」
『どうするの?』
「俺と蓬莱、二人で仲良く入ろうぜ?」
それを聞くや彼女は顔を真っ赤にしてすぐに返答してきた。
可愛いやつ。
『さ、先に入らさせていただきます!』
恥ずかしさから走っていってしまった。
初めから素直に風呂に入ればこんなこと言わずにすんだはず。
軽くああは言ったが俺だって――
「景吾、顔真っ赤ですよ?」
「うるせーんだよ。中村のくせに俺にケチつけんな。」
「はいはい、失礼いたしました。」
朝食の準備が整ったことを知らせに来た中村に指摘されたとおり、顔は真っ赤だった。
「しかし、いつの間にそんな乙女になったんですか?」
なぁ、蓬莱。
俺の過去を知っても、今と変わらない態度でいてくれるか?
「本当に変わりましたね…景吾。」
「良いことだろ?」
「はい、良いことです。」
今、ユエといても仁王ともギクシャクはしてない。
それはユエが一切あのことを口にしないからだと思う。
言わないのも手なのかもしれないな。
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