ラピスラズリは虚空を仰いだ
↑のフラウside。
その日は月が紅かった。
紅く染まった下弦の月は、まるで血の雫のようだった。
ヒトの本能なのか、身の内に潜む化け物の本能なのか、枯渇したように、何かが胸の内で疼いた。ざわざわと、まるで獣のように。理性が擦り切れそうで、思わず顔を背け覆った。
口角が自然とつり上がる。
ぞわぞわと、頭の後ろから背筋まで何かが這うように鳥肌が立った。それは決して嫌悪感はなく、寧ろ興奮ともとれるように吐息を漏らした。血の巡りが活発になったように感じさせられる躯は、何か獲物を求めていた。
(ああ、くそ、喰いてぇ…)
何が、とは言わない。何でも良かった。何でも良いから、この枯渇した躯を潤す何かが欲しかった。
血走った瞳で宵月の仄かな光に揺らめく世界を一望する。
この世界に、己の疼きを鎮めるものはあるのだろうか。
フラウは闇に溶けるように、その場を跡にした。
翌日の同時刻、夜の狩りを終えたフラウは空を見上げた。
昨日のように紅を帯びた月は、また少し細くなっていた。
新月が来るように、この獣のような疼きも無くなってしまえばいい。消えることの無い欲求を満たせることも出来ず。しかし魂を貪るだけの化け物にはなりたくもなく。ただ理性を保ち日々を過ごす自分は余りにも退廃的であった。
自嘲気味な笑みを湛えて、フラウは一時の安らぎを求めて自室へ戻る為に身を翻した。
―――ぺたり、ぺたり。
「―――――…、」
中庭を通り過ぎ、自室のある棟へ向かう途中。暗闇に響く微か足音と気配に、フラウは音のする方へ首を傾げた。
(こんな時間に、一体誰だ?)
時折急くように不規則に響く足音は、まるで自分の虚像のように、どこか自分に近しいものを感じた。そして何故か、その足音の持ち主が、自分の良く知る子供と重なった。
その足音を辿るように、無意識に脚が動いた。
それは本能的に、この暗闇の先にあるものを求めているように。
上の階と、地下を繋ぐ細い階段、その踊場に、足音の持ち主はいた。うずくまり、外部のもの全てを遮断するように、膝に顔をうずめて。
それは己が良く知る人物。
表情も解らなければ、どうしてこんな場所にいるのかさえ知ることが出来ない。
ただ、自分の目には、その小さな肩が震えているような気がした。
(テイト、)
フラウは囁くように瞳を目の前にうずくまる子供に向けた。
小さな窓枠から零れる小さな光が、影を作っていた。その影を消すように、影の上に置かれた燭台の灯が、どこか優しく二人を包んでいた。
自分に気付いたのか、伏せられていたその顔が見上げた。
どこか陰を落とすテイトの顔を見て、ざわり、胸の内の何かが騒ぎ始めた。
欲と理性が交差するその双眸に、テイトは動揺して思わず目を泳がせた。
「どうして、ここに」
フラウ、と。小さく開いた口で名を呼ばれた。
普段威勢の良いこの子供が、語尾が震わせていた。それは一体どうしてなのか、疑問には思ったが、今は目を合わせることのないテイトの瞳を追った。
「湿気たツラしやがって」
「………」
陰気なその容姿に、呆れたように溜め息が零れた。
テイトはただひたすらフラウの足元を見ていた。
(なんで見ない)
彷徨うテイトの瞳は、何かを拒むように、虚ろだ。その瞳が、あまりにもこの身を煽る。
(ああ、くそ、)
何故この場所にいるかなんて今更理由なんて訊かない。そんなもの、手に取るように判る。
ただ、こんな時間に人気のいないこんな場所にいることに、少なからず不安な自分がいるのも確かだった。
魅せられ、惹かれ、煽られ。磨耗していく自分の何かと、身の内にいる獣が暴れる。
(ああ、くそ、)
普段気丈に振る舞っている姿に。まだ繊細な心に。この子供に。あとどれだけ翻弄されればいいのか。
形の無い、不確かなものが、胸の内を渦巻いて、眩暈が起きそうだった。
「…ほっといてくれ」
小さな、本当に小さな反論。
どこか投げやりで、悲哀を孕んだその言葉の本心は、傍にいてほしいのだろう。今更くだらない意地を通すのか。
自分は平気なのだと、一人でも大丈夫なのだと思わせたいのだろうか。
自分は、そこまで弱くはないのだと。
そんなテイトに見かねて、フラウはテイトの前にしゃがみ込んだ。顔を覗くように首を傾げれば、テイトは表情を見せまいと膝の間に顔を隠してしまう。
(まただ、こっちを見ろ)
言葉にすればいいのに、喉元に詰まって出て来ない。
束の間の沈黙。
燭台の蝋燭が、ジジ…とはぜる音を微かに上げ、炎が揺らいだ。
その沈黙を先に破ったのは、くぐもったテイトの吐息と、掠れた声だった。
「夢を、見るんだ」
途切れ途切れになりそうな言葉を必死に繋げて、くぐもった声は弱々しく続く。
その言葉の一つひとつを取りこぼさないように拾いながら、何を言うでもなく静かに耳を傾けながら、触れそうで触れられないこの距離にもどかしさを感じた。
「寝てるときだけじゃなくて、起きてるときも、常に。誰か頭の中に居るんじゃないかって、思うくらいに、人の声がするんだ」
テイトの小さな手が、膝を抱き締める。己の幻想に怯えているのか、それとも過去の罪悪感に苦しめられているのか。
きっと、どちらもなのであろう。揺らぎ震える声が、それを物語っている。
「それから、それ、から…――泣けないんだ」
蚊の鳴くようなか細い声がして、ゆっくりと、テイトは顔を上げた。
虚無な双眸が蒼眼を捕らえる。
「凄く、すごく辛いのに、悲しいはずなのに。 なあ、フラウ」
――――今、泣けてる?
そう呟いた、その顔は悲痛に歪んで、涙を流しているようには到底思えなかった。燭台の灯りを取り込んだ翡翠の碧眼は朱を滲ませて、それが更に悲痛さを物語った。
惨めに見えた。
ただ、愛しいとも思えた。
応えにあぐねいていると、テイトがフラウの首目掛けて手を伸ばした。
「テイト」
何の真似だ、と視線で語る。
テイトは、フラウの首を柔く絞めた。その冷えた手の温度が、死した躯の体温と溶けていくような感覚に、微かな心地よさを感じた。
ああ、このまま溶けてしまえばいい。
「フラウ、フラウ、フラウ」
どうすれば良いか自分でも判断つかない様子で、テイトは助けを懇願するような瞳で、声で訴えた。
(どうして、)
どうして、こんなに愛しいのだろう。
縋るように触れ、求めてくるテイトの姿に、言い表せない優越感を感じた。
「テイト…」
「フラウ、ッ…おれ、おれ、最低だ…っ」
小さな手に力が篭もる。
同時に、息が苦しくなる。
「、テイト」
「ミ、ミカゲが死んで、悲しくないはずないのに、泣けないんだ…、親友が死んだのに、前みたいに涙が出ないんだ…っ」
その悲痛な瞳は、亡き親友を贖う為だけにあるわけではないだろう。言いたいことは沢山あるのはずなのに。ただ今は、この子供を抱き締めてやりたかった。
長い間溜め込み、溜め込み過ぎた感情は、一気に崩壊して当て場もなく溢れ出ていくように、テイトを苦しめていた。
「テイト、落ち着けテイト、」
酷く混乱して揺れる瞳は、確かに助けを求めていた。
フラウは首を絞めていたテイトの手を優しく外し、テイトの頬を両手で包み込んだ。
「落ち着け、テイト」
揺れる双眸。震えた吐息。
今にも泣きそうな、泣けないと悲痛に歪んだ顔。
磨耗した心を必死に隠す姿。
どれをとっても、愛しいと思った。
ふつふつと、沸き上がる感情に、フラウは一つ息を漏らした。
(ったく、困ったもんだ…)
「…あ、っあ、」
手形状にくっきり赤く鬱血しているであろう首に目をやり、テイトは我に返り、取り乱した。
「ご、ごめ、っごめん、フラウッ」
フラウの手をすり抜け、震える手で首の痣に触れる。
小さな手が、そっと触れる。自分を心配して触れているだけなのに、幸福感が募って、堪らずテイトの名を呼んで、腕の中へ閉じ込めた。
(、え…)
首筋に掛かる息を飲んだような吐息に、馴染みの香りに、視界一杯に広がる艶やかな黒髪に、自然と笑みがこぼれる。
「テイト」
耳元で、どこか欲が混じった声で名を囁いた。
途端に、テイトは躯を強ばらせた。
どうすれば、近くなるのか。躯が触れ合う距離だけが縮まるだけで、肝心な部分が埋まらない。
躯に回した腕に力を入れて、離さないように躯を引き寄せた。
「フラ、ウ」
今にも泣き出そうな、頼りない声。背中に腕が回り、黒髪がフラウの首筋へ滑り落ちた。
「フラウ、ごめん、フラウ」
ごめん、と繰り返すテイトの髪を優しく撫でながら、フラウは諭すように、テイトの名を呼んだ。
首筋に額を押し付けて、縋るように自分の名を呼んでくるテイトに、堪らなく愛しさが募った。
泣けないと、そう言った瞳は未だに涙が出ないけれど、いつか素直に泣ける時が来ると、そう祈りを込めて、この小さな子供を抱き締めた。
「テイト」
そして涙を流すその時、受け止めるのは自分であれと、そう願ってやまないのだ。
「フラウ、見つけてくれて、ありがとう」
そう零した腕の中の子供に、フラウは一つ笑みを零した。
どうか、この子供に、笑みが絶えぬようにと。
ラピスラズリは虚空を仰いだ
(在るはずのない心臓が、疼いた)
前作を加筆してフラウsideのようなものにしたもの。
甘いようで、病んでるフラウさんを書きたかったのですが。
結果あっても無くても良かった話になってしまった…。
2011.5.9
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