雨の日になると必ず【それ】は夢に出てくる。 幾多の日々が河川のように流れようとも、【それ】だけは何時までも脳裏にこびり付いたまま─しつこくしがみついたまま離れない。 その日以来、【それ】を背負ったまま……今の流れに抗っている。 小鳥がさえずる爽やかな朝。 朝日はすべての活動の始まりを知らせるよう、藍ヶ丘を照らす。 未来辰也は、窓から差した光に目を覚まし、体を起こした─が、その瞬間に頭に痛烈な痛みが走った。 【辰也】 「っ!……うっ、眩っ」 痛みは一瞬で消えていた。 まだ起きたばかりか、光に慣れない。 しばらくボーっとしていると、徐々に冴えてきた。 【辰也】 「……さてと」 毛布を剥ぎ取りベッドから下りると、まず最初に首を鳴らした。 寝間着をさっと脱ぐと、白いシャツを箪笥から取り出し、ハンガーに掛けてある青の生地上下の制服をベッドに放ると、手際良くそれらを着ていく。白い靴下を確認して着き、投げっぱなしの鞄を持ち、一階へと降りる。 階段の途中、リビングの方から音が聞こえた。 (もう起きてるのか) 辰也はリビングへ行く前に、洗面所で顔を洗うことにした。 季節はもう冬にもなり、10月後半中りから急に寒さが増してきていた。 暖冬という噂だったが、ここ数年でも一番の寒さをマークしている。 水道の蛇口はこれでもかと言わんばかりに冷たく、水は尚更だ。 【辰也】 「ぶはっ……」 あまりの冷たさに変な言葉が出てしまった。 【辰也】 「……今度からお湯で洗ってみるか」 お湯の方が目が覚めるかもしれない─と思いながら、顔を拭くと、何気なく視界の中に女性用の下着が入った。 【辰也】 「不用心にもほどがある……あとで言っとくか」 とりあえず不用心な下着を洗濯籠に放り込み、リビングへと向かった。 扉を開けると、何かを切る音がしていた。 リビングにはキッチンルームがすぐ側にある。 そこに向かうと、未来歩美がいた。 小さな体で、白の長袖のシャツに青生地のスカート、その上にエプロンを着ていた。 【辰也】 「なんで歩美が朝食作ってんだよ」 辰也がそう言うと、歩美が振り向き、怪訝な顔している。 【歩美】 「朝一番に言うことな〜んだ」 【辰也】 「おはようございます」 【歩美】 「うん、おはようたっちゃん!」 納得いったご表情。 【歩美】 「あ、さっきの質問に答えると、母さん達─仕事で早く出てっちゃったから代わりにね」 辰也は納得すると、料理に取りかかる姿をしばらく見ていた。 そうすると─昔のことを思い出した。 父親が再婚したのは丁度一年前くらいだった。 仕事場で出会った女性と急に結婚したいと言い出し、辰也は別に逆らいもせずそれを了承したが、初めて出会った時にすぐ問題が出てしまった。 父親が再婚した女性には娘がいて、なんと同じ学園、同じ学年だと言うのだ。 【父親】 『歩美っていう名前だ。仲良く出来るな?』 正直むちゃくちゃだと思った。いくら何でも、同年代の血の繋がらない義兄妹(歩美は義姉弟と思ってるらしい)になるのは嫌だった─が、反対出来ずに再婚が決まった。 【辰也】 (クソ親父め……大事な部分を言わずによくも) おかげで学園に行くのも余計な神経を使わなくてはならなくなり、心中穏やかではない。 【歩美】 「あ、もうすぐ出来るからテーブル拭いといて」 そんな辰也のことはお構いなしにお節介する歩美に、結構流されながら今過ごしている。 片付いているテーブルを濡れた布巾でさっと拭き、歩美が盛った皿を並べる。 一通り終わると、二人は椅子に座った。 この時必ず決まって、歩美は向かい合うように座る。 【辰也】 「いただきます」 【歩美】 「どうぞ召し上がれ♪」 歩美は料理が好きな上に、本当に上手い。 向かい側に座るのは、自分の料理を美味しく食べる姿を見てるのが楽しい─かららしい。 辰也はどうもこういうのが苦手だった。 【辰也】 (そういや……いつの間にか) 苦手になっていた。 人が向かい側にいる状況が。 【歩美】 「たっちゃん?どうしたの?」 【辰也】 「いや、どっかの誰かさんが下着を脱ぎっぱなしだったなと」 【歩美】 「あ……たっちゃん見たなぁ」 【辰也】 「なにがだ……だいたいなぁ不用心すぎるぞ」 【歩美】 「エッチィ」 【辰也】 「……ごちそうさま。先に行く」 【歩美】 「あ、好き嫌いしちゃ駄目だったら」 残したままの皿をカウンターに置き、鞄を持ってさっさと洗面所に向かって行った。 【歩美】 「……おかしなたっちゃん」 少し落ち込むが、気にしないように片付け始めた。 辰也が通う澄空学園に行くには、電車が主な通学手段だ。 そのために使う─私鉄芦鹿島電鉄芦鹿島線─通称シカ電は多くの学生がいる。 藍ヶ丘から澄空まで僅か六分くらいで着く。 それでも電車に揺られながら、熱心に勉強している人達も居れば世間話をしている人達も居る。 【歩美】 「たっちゃんたら弁当忘れていくんだもん」 【辰也】 「……だからって駅前で弁当箱持って『たっちゃん弁当〜!!』って呼ぶな!」 【歩美】 「あれ?照れてる?」 【辰也】 「恥ずかしいんだよ!人前なんかで!」 そうは言うものの、もうだいぶ慣れつつもあった。 周囲の目もその光景を当たり前だと思うようになり、あまり気にはしていない。 だが、辰也は幾分恥ずかしさと言うよりもむずがゆさがあるのだ。 【歩美】 「だけど忘れたのはたっちゃんのせいだから、やっぱりたっちゃんが悪い」 【辰也】 「だからって─もういいや、言ってもキリがない」 観念して、もうそのことは忘れることにした。 景色と四季は随分早く流れる。 秋も終わりを迎え、木の葉はすでに落ち葉に変わり、次の春に向けて蓄えてるようでもある。 一年365日だが、まだ数日しか過ごしてない気がする。 【辰也】 (……もう一年か、歩美が来てから) その時、また頭に痛烈な痛みが走った。 【辰也】 「ぐっ!……っうぅ……」 【歩美】 「えっ!?大丈夫たっちゃん!」 突如苦しみだした辰也に、歩美は騒いだ。 周囲の目が辰也と歩美に行き、ざわめき始めた。 【辰也】 「……大丈夫だ……だからそんなに騒ぐな」 弱々しくそう言うと、深呼吸をして自分を落ち着かせる。 歩美はそんな様子を心配しながら見ている。本当の弟のように。 次第に痛みが引いていき、電車は澄空に着いていた。 【辰也】 「行くぞ」 【歩美】 「あ、うん」 何事もなかったように、辰也は電車を降りる、が、次々と押し寄せる乗客に妨げられながらであるために、降りるのも一苦労だ。 二人は窮屈な中を急ぎ足で駆け抜けていき、澄空駅の出入り口にようやく抜け出た。 【歩美】 「たっちゃん……はぁ……はぁ…速すぎるよ」 【辰也】 「そうか?ってか時計見てみろ」 【歩美】 「へっ?……うわっ!もうこんな時間!?」 【辰也】 「そんじゃ走るぞ」 【歩美】 「ふぇ〜ん!」 澄空学園までは距離があるが、それでも走れば間に合うと思い、体力の極限まで猛ダッシュした─が、結果遅刻となったのは後の話である。 昼休み。 教室内の生徒はまばらで、購買部に駆けていく人、食堂に行く人が多い。 その他はどこか別のクラスで昼食を取っている─と思う。 辰也は鞄から歩美手作り弁当を取り出す。 【???】 「今日も愛妻弁当ですか」 【辰也】 「今度言ったらただじゃ済まんぞ?稲穂」 弁当を取り出すや否や現れたのは、稲穂信。 金髪で背も高くノリがいい信だが、辰也はあまりそういった冗談は好きではない。 【信】 「冗談だよ冗談。そう怒るなよ」 【辰也】 「それで、用事でもあるのか?」 【信】 「いんや、特にないが……あるとしたら弁当かなぁ」 にやにやと薄く笑いながら弁当に興味津々に言う。 【辰也】 「なんで弁当見にいちいち来るんだよ」 【信】 「なんでだと!?愛情こもった女性のしかも同年代の手作り弁当を毎日食べておきながらなにを言う!!」 【辰也】 「うるさいわ!同年代の女でも妹だ!い・も・う・と!!」 【信】 「それでもうらやましい!」 【辰也】 「アホかっ」 そうこう言い合っていると、もう一人近づいてきた。 【???】 「稲穂くんに未来くん、なにそんなに騒いでるの?」 【信】 「あ、音羽さん!辰也がさぁ妹に弁当作って貰ってて」 その場にまた現れたのは音羽かおる。 今年度に転向して澄空学園に来た女の子だ。 最近クラスに慣れたか、ノリも信と同じくらいになっている。 【かおる】 「で、稲穂くんはそれに妬んでいると」 【辰也】 「まったくその通りだ」 かおるが信に対して怪訝な目で見ると、信はたじろぐ。 【信】 「いやぁおれはただ……いいなぁっと思って」 【かおる】 「うらやましいって思いっきり聞こえたんだけどなぁ」 【信】 「うっ……いや、その」 【辰也】 「稲穂、退き際は肝心だと思うが?」 信の逃げ道はすべて封鎖され、もはや言うことは無くなってしまった。 【信】 「……はははは……はい、妬みました」 【かおる】 「稲穂くんもお姉さんに作って貰えばいいのに」 悪戯な笑みを見せながらかおるが言うと、信は苦笑しながら少し否定気味に言う。 【かおる】 「あ、そう言えば未来くんに妹っていたんだ」 【辰也】 「妹と言うか、義妹だけどね、同年齢だけど」 辰也がそう言うと、かおるは興味を示しだした。 【かおる】 「へぇ〜あるんだねそういうの」 【信】 「辰也の場合、弟って感じがするけどな」 信にそう言われた瞬間、ピクッと辰也の眉が動く。 【かおる】 「え?なんで?」 【信】 「まあなんとなくだけど、こいつひねくれたとこあってさ」 信が笑い話にしようしたとき、辰也はどこか別の場所に行こうと席を立った。 勢いよく立ったために、信とかおるは何事かと思いながら、辰也の後ろを見送った。 【信】 「……おれ悪いこと言った?」 【かおる】 「言った」 信の言動に呆れながら、かおるも他の人と話しをしに行った。 信は若干取り残されたが、すぐに切り替えていつもの友人の場所に向かった。 屋上へ上がると、北風が身に染みるほどの寒冷だった。 辰也は屋上にあるベンチに座ると、澄空の向こう側に広がる景色を見つめる。 低い位置に薄く広がっている以外は雲はなく、実に晴天と言えた。 このまま向こう側へ飛んでいきそうな―。 【辰也】 「行ったら死ぬだろうな……」 と全然夢のない独り言を呟く。 屋上には辰也以外誰もいない。こんな寒い時期に来てたらそれはそれでおかしなことだ。 辰也はここが好きだ。 何事もなく、静かで、全体を飲み込むような青空を見ることが好きなのだ。 こうしていると、不思議と何もかも忘れられるような気がする。 だが―いつからなのか……。何かを忘れようとする。 忘れようと無意識に動いている。 【辰也】 (……おれはなにがしたいんだ) 大空に尋ねても答えは返ってはこない。 それだけはわかっていた。 だが答えを探した。自分だけじゃどうにもできないと……思っているのだ。 その日は雨だった。 豪雨……と言えるほどの強い雨の中、辰也と少女は急いで帰っていた。 【???】 『早く早く!!』 小さな体に不釣り合いな大きな傘。 何でそんなに急いでたのか……確かその日は父親の誕生日だった。 父親が帰って来る前に、夕食を作って驚かせようと無邪気な心で急いでいた。 【辰也】 『あまり急ぐと転ぶぞ!』 【???】 『大丈夫大丈夫!あっ…』 その時、少女が持っていたアクセサリーが転がり落ちた。 大切にしていたのだろう……慌てて転がったアクセサリーを拾おうとして、道路の途中まで出た。 【辰也】 『えっ?』 刹那……拾おうとした少女に気づかず、トラックが衝突したのだ。 辰也の目の前から、少女は一瞬にして消えた。 雨の中を、野次馬が駆けつけ、遠くから聞こえるサイレンの音が耳に残ったまま……鳴り続けた。 ……ちゃん……。 …っちゃん…。 【歩美】 「たっちゃん!」 歩美の声で、辰也は飛び起きた。 いつの間にか寝てしまっていた。 【辰也】 「……あ、すまん。寝てた」 【歩美】 「何度も呼んだよ」 歩美は呆れながら辰也が何もないことに安堵する。 【辰也】 「悪い……昼休み終わったか」 【歩美】 「昼休みはおよそ3時間前に終了しました」 【辰也】 「そうか。……ん?何だって?」 【歩美】 「3時間。つまりたっちゃんは午後の授業全部すっ飛ばしたってこと」 【辰也】 「…………」 顔に手のひらを当てて、まいったなぁというポーズを取る。 【歩美】 「まっ、終わったことは仕方ないよ。それより早く帰ろ!夕食の材料も買わないと」 【辰也】 「つまり荷物係りね……わかった。玄関で少し待っとけ」 出なかった授業は誰かのノートを借りようと考えながら、教室へと走った。 夕焼け空は澄空を染め、違った風景を醸し出していた。 【アナウンス】 『次は〜藍ヶ丘〜藍ヶ丘でございます。お降りのお客様は……』 電車は早くも藍ヶ丘に到着した。 澄空のストアーで買い物をした辰也と歩美は、結構な量の食材の入った袋を一緒に持っていた。 【辰也】 「いくらなんでも買いすぎじゃないか?」 【歩美】 「そんなことないよ、だって四人分に何日か保つように買ったんだもん」 【辰也】 「にしては余計なお菓子がたくさんある気がするが」 袋の半分はお菓子で埋まっていた。 辰也が指摘すると、歩美は頬を赤らめながら反論する。 【歩美】 「だって私夜遅くまで勉強してるから夜食必要なんだもん」 【辰也】 「この量だと太るぞ?それに夜食なら別のでいいだろ」 今度は膨れ顔で何か言おうとした時、辰也が歩道にいる一人の名を呼んだ。 【辰也】 「おーい、俊太!」 上下に青いジャージを着た少年が振り返る。肩には大きなバックをぶら下げてる。 少年は二人に気づくと手を挙げて答えた。 【???】 「今帰りか?」 二人が追いつくと、青井俊太はそう尋ねてきた。 俊太は浜咲学園に通っている。 辰也とは幼なじみで、家が道路を挟んで目の前同士だ。 【辰也】 「あぁ。その格好だと、また制服のままサッカーしたのか」 俊太は苦笑しながら、ある事を思い出しながら話しをする。 【俊太】 「まあな。昼休みに伊波と中森の三人でPK合戦したんだ」 【辰也】 「賭対象はジュースだな」 【俊太】 「ああ。最初は何とか勝てそうな雰囲気だったんだけどな。伊波のやつ、マジになりやがって結局負けたよ」 聞いていた歩美がその話に食らいつく。 【歩美】 「それでそれで!誰が優勝!?」 なぜか興奮している様子だ。 【俊太】 「ドロー。伊波が中森に負けて、中森がオレに負けて、オレが伊波に負けたからプラマイゼロ」 【歩美】 「なんだぁつまんない」 そしてなぜか他人の賭事で楽しもうとしている。 三人が帰路を行くその道中に、大勢の子供達がはしゃぎながら通り過ぎる。 【辰也】 「ははは、オレ達にもあんな時があったのって随分最近に思えるな」 【俊太】 「そうだな……最近時間ってものが早く感じるのはなんでだろうな」 辰也と俊太がそんな話をしている最中、歩美が何かを考えついたのか、二人の肩を掴む。 【歩美】 「ねぇねぇ……今日はダーツ大会に致しましょう!」 突然の閃きがよく伝わらないのか、二人は歩美を見たまま固まっている。 【歩美】 「だから、ダーツ大会でそんな黄昏をぴょーんと飛ばしちゃおうってわけ」 【俊太】 「いや、とりあえずダーツに至った経路が知りたい」 俊太がそう間一髪でツッコミを入れると、歩美はそっぽを向いて呟く。 【歩美】 「だって……二人に勝てるのダーツしかないもん」 歩美は料理もさることながら、ダーツの腕前もかなりのものだ。 自分専用のを持っていて、リビングにはちゃんとした的もある。 【歩美】 「どうせ今日も俊くんは食べに来るんでしょ?」 【俊太】 「ああ、経済状況厳しいからな」 俊太は今一人暮らしをしている。 両親は仕事柄海外に行き、俊太はここへ残っている。 【歩美】 「なら〜ダーツ大会は必然だね」 無邪気に笑い、嬉しそうにステップを踏みながら再び帰路につく。 【俊太】 「はぁ……皿洗いは確定か」 【辰也】 「だな……絶対皿洗いを賭るな」 二人は裏腹に、どんよりとした足で帰路についた。) |