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世界名作劇場小説部屋
前夜それぞれ




夕食後の執務を終え、トム・クリスフォードは書斎でくつろいでいた。明日行われる晴れの行事のために、どんな細かい業務も今夜中に終わらせておきたかった。そんな仕事がやっと片付き、インドの紳士ははるか昔を回想しながら宙を見渡し、そして机の上へと視線を移した。

「ラルフ、いよいよ明日だよ」

 彼の机に置かれたフォトスタンドの中では、今日も彼の無二の親友ラルフ・クルーが笑っている。その笑みは、今までにないほど彼が喜んでいるかのように、クリスフォードには見えていた。

「明日は君も一緒に教会へ行こう、ラルフ」

 写真の中のラルフが何かをクリスフォードへ語りかけようとしたときだった。
ドアがノックされた。ラルフはもとの写真へと戻り、クリスフォードは顔を上げた。その小さなノックの音により、ドアの向こうに誰が立っているか、彼にはすぐわかった。だから彼は名前で呼びかけた。

「お入り、セーラ」

「おじさま、失礼します」

 二人が初めて出会ったとき、その少女セーラ・クルーはまだ十二歳にも満たなかった。そして当時の彼女は女性らしいやわらかい身体の曲線もなく、年齢に反して背丈もなくて、やせ細っていた。それでいて、彼女の全身から感じる彼女の気品と碧い瞳が実に輝いてクリスフォードには見えたものだった。
 そんな彼女も、二十歳を過ぎた今では、街中ですれちがう誰しもが思わずふり返ってしまうであろう美しい淑女へと成長していた。それでいて、幼い少女時代を思い出させるやわらかい香りがどこからか感じられる。
 クリスフォードは席を立ち、閉めたドアのそばから離れないでいるセーラへ歩み寄った。

「おじさま……」

 セーラは言葉がでなかった。きちんと話さなくてはならないことは充分わかっている。けれどもなぜか話せなかった。


「いよいよ明日だね。私も楽しみだよ」

 インドの紳士が手をセーラの肩に置いた。氏の手の温もりが彼女の心に届いたのだろう。セーラはそれまで見つめることができなかったクリスフォードの目にやっと自分の視線を合わすことができた。
 きちんとあいさつしなければならない。それはわかっていた。市長夫人をはじめ、どのような高貴な人たちに会っても、セーラは詰まることなくいつもの笑顔であいさつを交わすことができた。でも今のセーラは、生活を十年も共にしてきたはずのクリスフォードを前にして、声が出なかった。そんなセーラの様子を見て、インドの紳士は自分から語りかけた。

「初めて出会ったときからセーラは私の宝物だった。それはこれからもずっとずっと変わらないんだ」

「セーラはどこかへ行ってしまうわけではないんだ。会おうと思えばいつでも会える。そうだろう」

 セーラは無言でうなづく。誰に対してもはっきりと声を出して返事をすることが彼女の習慣だったが、口を開くと思い切り泣き出しそうになっていたから、セーラは口をぎゅっと結んでいたのだった。

「さあ、明日は早い。もう寝なさい」

 氏のこの一言で、セーラはもう耐え切れなくなってしまった。でも彼女はやっとクリスフォードへ別れを言えたのだった。


「おじさま、今日まで私のことを本当の娘のようにかわいがってくださり、ありがとうございました」

 胸へ飛び込んできたセーラを、クリスフォードはしっかりと受けとめた。

「何を今更他人行儀のようなことを言うんだね、セーラ。お前は私の本当の娘だ。私の自慢の一人娘なんだよ」

「大好きです、おじさま」

「私も大好きだよ、セーラ。幸せにな」

「はい」

「これから私に会いに来る時は、いつも仲良く二人一緒に来るんだよ」

「はい、おじさま」


ハンカチで目頭を押さえたセーラがクリスフォードの部屋から出て行ってしばらくの後、インドから来た紳士の書斎のドアをノックしたのは、彼の召使いのラムダスだった。彼はクリスフォードへ就寝前の飲み物を届けたのだが、二度部屋の扉をノックしても何の返事もなかったため、彼は少々不安な気持ちで扉を開いた。
 インドの紳士は椅子に腰掛けたままで、机の後ろの窓からぼんやりと星空を見つめていた。氏に何事もないことを知って、ラムダスは緊張の解けた息をするのだった。

「ご主人さま、お茶をお持ちいたしました。ご主人さま、ご主人さま」

 けれども、ラムダスの何度目かの呼びかけで、ようやくクリスフォードは彼が部屋へ入ってきたことに気づいたようだった。

「あ、ああ、ラムダスか」

「ご主人さま、お体の具合がまた……」

 と、心配げなラムダスに軽く手を上げて何事も無いと返事をするクリスフォード。

「ご主人さま、いよいよ明日ですね」

 氏の机の上へ置いたカップの中へ氏の好きなインドの香り高いお茶を注ぎながら、ラムダスは言った。彼のこの言葉にも、どこかしら寂しさを感じる。

「そうだ、ラムダス。とうとう来てしまったよ」

 インドの紳士は茶が入ったカップを取り上げ、再び星空へ目をやった。

「本来なら大いに喜ばないといけないのだろうが、どうしても別れを思ってしまうのだよ」

「ご主人さま、セーラお嬢さまの喜びはご主人さまの喜びでございます。そして、ご主人さまの喜びは、この私の喜びです」

 ラムダスに、クリスフォードは小さくうなずいて答えた。

(そうだ、これでよかったのだ)

 そして彼は思った。先ほど自分に会いに来たセーラはとても悲しそうだった。
けれどもそれは、セーラがこれから一生幸せになる喜びの前の一瞬の悲しみでしかない。


「ご主人さま、セーラお嬢さまとご主人さまの絆が、家族が増える明日からよけいに強くなるのでございます。決して別れなどではございません」

 ラムダスのこの言葉が、窓の外を見上げているインドの紳士の耳にどのくらい聞こえたかはわからない。けれども、長年その紳士に仕えてきたラムダス彼自身はクリスフォードの今の心情がよくわかる。わかるからこそ、その気持ちを今は二人で分かち合いたかった。
 とは言うものの、この広い屋敷が、明日からはよけいに広く感じられるようになるかもしれない。そんなことをラムダスはふと考え、主人が見る星空へ自分自身も目をやるのだった。



 クリスフォードとラムダスが見つめる澄んだ星の明かりは、テムズ川のほとりにあるホテルの一室にも差し込まれ、その中にいる一人のレディを照らしていた。けれども彼女はそんな星々の輝きなどまったく興味がない様子だった。彼女は明日着用する予定のドレスをどれにするかまだ決めかねていて、ドレッサーと姿見の鏡の間を何度も往復しているのだった。
 その彼女の舞台は、教会に用意されていた。残念なことに、彼女は主役ではなかった。しかし、そんなことおかまいなしだった。明日の教会にはきちんと自分以外に主役がいることを彼女はじゅうぶん理解していたにかかわらず、自分自身が主役の座を奪い取ってやろうと、彼女は真剣に考えていたのだ。
 そんなことを聞くと、その彼女はいかに礼儀知らずなわがままお嬢さまかと思えてしまうのだが、彼女がそう考えるには彼女なりの理由があった。それは端的に言うと、彼女は失望してしまったのだ、明日の主役に。彼女にとって最大のライバルと信じていたその主役が、明日の教会でライバルでなくなる。そのことに彼女はひどくがっかりさせられたのだ。


「もはやセーラはダイヤモンド・プリンセスなんかじゃなくなったわ。ダイヤモンド・クイーンなんて誕生しない。その代わり、誰も見向きもしないスラム・クイーンがみじめにデビューすることになるわ。ふふ、これで世界は私だけに注目するのよ。アメリカ大統領夫人、ファーストレディとなるこの私だけにね」

 彼女は晴れの舞台となる明日の教会で身にまとう衣装をやっと決めた。真っ赤なドレスだ。この色は彼女の最大のライバルがもっとも好きな色だ。その色のドレスを着ることによって、彼女はライバルに決別することにしたのだ。


「あら……。あんたたち、まだいたの?」

 ここで彼女は初めて思い出した。自分の衣装選びを手伝わせるために、隣室から二人の女性を呼んでいたことを。もっとも、衣装選びは彼女一人で終始行い、二人は彼女の着せ替え人形ぶりをただ黙って見せ付けられただけであった。

「もういいわよ。明日のドレスはこれに決めたから、部屋へ帰ってちょうだい」

 随分と愛想ない言い方で部屋を追い出された二人は、ひどく疲れきった様子で自室であるツイン・ルームへと戻っていった。そしてベッドに腰かけた後、背が高く細身の彼女は相棒へ話しかけた。その声もずいぶんくたびれていた。

「何年ぶりかで会ったのに、ちっとも変わってなかったね、あの人」

 話しかけられた相棒は、髪を束ねていた小さなバンドをはずしながら、その小太りな身体を椅子に降ろした。

「あんな調子で政界に出られちゃ、大統領は再選できっこないと思うわ」

「再選どころか、一度の当選すら危ういわよ」

「本当ね、ジェシー」

「あんたもそう思う、ガートルード?」

 ミンチン学院のかつての級友二人は、そう言って顔を見合わせ、あははと笑い転げてみせた。





「おや、どうしたんだい。まだ眠れないのかい」

「うん、パパ。お祝いの言葉、ちゃんと言えるかなって思うと、寝付けないんだ」

「大丈夫だよ。お前はパパの子じゃないか」

「お姉さまはさっさと寝ちゃったんだ。本当はもっとおしゃべりしたかったのに」

「セーラお嬢さんが投げるブーケを絶対受けとめるんだって、お姉さんは張り切っていたよ」

「僕はロッティに言ったよ。ブーケは絶対君がつかむんだぞって」

「ははは、姉よりもお前が先に教会の鐘を鳴らすのかい」

「パパ、こればっかりは年の順じゃないと思うんだ、僕」

「よくわかったよ。お前の言うとおりだ。私もロッティがブーケを受け取れるよう応援しようではないか」

「ありがとうパパ! それじゃおやすみ」

「おやすみ、ドナルド」




「わ、私たち姉妹は……。お父さまを亡くされたセーラさんを精一杯お世話してまいりました。セ、セーラさんもその恩は……、え、ええとそれから」

「もう、お姉さま。何度言わせるんですか。明日はセーラさんのお祝いなんですよ。そんな話、お祝いの言葉にはなりませんって、先ほどからずっと言ってるじゃありませんか」

「で、でもね。これは本当の話でしょ」

「もうお姉さまはだまって。ミンチン学院代表のお祝いの言葉は、私が話します」

「アメリア、あなた、よくそんなことまでずけずけと私に。私は名誉院長ですよ」

「あら、本当ならクリスフォードさまが名誉院長になるはずだったでしょう。でも、セーラさんが院長職を辞退なさったからこそ、お姉さまは名誉院長で名を残すことができたのですわ」

「アメリア、クリスフォードさまとずいぶん親しくなったからって、よくそこまで姉である私に言えるものですね」

「親しいだなんて。私は教頭として院長先生と接しているだけですわ」

「どうかしら。お隣さんへ行くだけなのに、お呼ばれしたら、めかしこんでスキップしながら出かけるくせに」

「何ですって、お姉さま」




 そろそろ床につく準備をしようかと思っていたとき、セーラはドアをノックする音を聞いた。その前にかすかに響いてきた廊下の足音が、訪問者が誰なのかをセーラに教えていた。

「ベッキーね、どうぞ」

 セーラにとっては竹馬の友などという表現ではとても語りつくすことのできない友の訪問だった。彼女は自らドアを開け、友人を歓迎した。

「お仕事お疲れさま。今夜の夕食も、私お腹いっぱい食べたわ」

「ありがとうございますぅ、お嬢さまぁ」

 地方訛のある独特のアクセントで、その友人は部屋へ入ってすぐにセーラへお辞儀をした。
 彼女、ベッキーはセーラと常に苦楽を分かち合ってきた、もう今では姉妹と言ってしまって差し支えない存在だ。かつてミンチン学院の薄暗い地下室で働いていたころの汗臭いイメージははるか昔に消え去り、クリスフォード家の明るく清潔な厨房を預かる今の彼女は、セーラ以外のもう一人のプリンセスと紹介されても少しもおかしくない気品を全身から感じさせている。
 だが、セーラはこの友から視線をはずし、さみしそうに唇をかんだ。もう今夜で終わってしまったのだ。今夜を最後に、セーラはベッキーのつくるごちそうを味あうことができなくなってしまったのだ。

「今まで私のそばにいつもいてくれて本当にありがとう、ベッキー」

 セーラはつらい思いをぐっと胸の中へ押し込み、はずしていた視線を友人へ戻した。


「これからは、ご家族でお幸せにね」

 明日行われる晴れの儀式の後、ベッキーは母が一人で待つ故郷へ帰ってゆく。
帰省ではない。もうセーラが暮らすロンドンの街へは彼女は戻ってこないのだ。
これまではベッキーの元気な声を聞いて起床することが当たり前だったのに、もうそれが当たり前ではなくなってしまうのだ。

「今の私がこうして静かに暮らすことができるのは、全部ベッキーがいてくれたからだわ。私はこれまでにあなたから受けたご恩を一生忘れません」

 友人の前では泣くまいと思っていた。けれども、セーラの意思とは関係なしに彼女の碧く大きな瞳からはぽろぽろと涙がこぼれだした。


「ご恩だなんて…。受けたご恩を忘れられないのはお嬢さまではなくて、私の方でございますぅ」

 涙は伝染するものなのかもしれない。ベッキーの目からも涙が伝った。それと同時に、ベッキーの頭の中にはセーラとの出会いから今日までの出来事が、活動写真のように次々と映し出された。その出来事ひとつひとつが、ベッキーにとってはセーラへ何と感謝してよいか、まったく適した言葉が見つからないものばかりだ。ひときわ、自分の家族へかけてくれた恩は身にしみた。


返済まで一生かかるかもしれないと思っていた借金をセーラは全額肩代わりしてくれた。 有名な医者のいる街の病院へ祖母を入院させてくれた。まるで実の孫であるかのようにセーラは祖母にいつも付き添ってくれた。おかげで祖母はベッキーがこれまでに見たこともないような幸せそうな笑顔で神さまに召されていった。
 弟と妹たち三人はいずれもロンドンで勉強中だ。もちろんセーラは自分の弟と妹のように彼らを可愛がってくれている。そして彼らもまたセーラを姉と呼び、心を寄せている。
 もうベッキーには何も心配することはなくなった。これからは田舎に残った母親と二人、家を守っていくことに専念できる。弟たちの里帰りを温かい料理で待つこともできる。ベッキーにもセーラとは異なるそんな花道が用意されていた。

「時々はアッシュフィールド村へ遊びに行ってもいいかしら」

「もちろんでございます、お嬢さまぁ。そのときは全村民でお出迎えいたしますぅ」

「まあ、ベッキーったら」

「お嬢さま、本当でございますよぉ」

「ありがとう、ベッキー」

「お幸せに、お嬢さまぁ」

「うん」




「諸君、明日のために、わしは今夜酒は一滴も飲まんよ、ひっく」

「おいおい、名医殿。もうすでに何杯めかな」

「何を言うかね、諸君。わしは飲まんと言ったら飲まんのじゃ、ひっく。今わしがたしなんでいるのは、ぶどうジュースじゃ」

「ジュースでそんなに酔っ払いますかな、名医殿」

「祝いの感激のために酔っただけじゃ。セーラお嬢ちゃん、万歳じゃぁ、ひっく」

「ああ、ああ、わかったよ、名医殿。早く帰らないと、明日起きられなくなりますぜ」

「そうじゃのぉ。では帰るかの。では、諸君、さらばじゃ」

「名医殿、ジョッキは置いてってくれませんかね」

「おっと、こりゃ、すまん、すまん。んぐっ、んぐっ、んぐっ、ぷっはぁ」




「熱さましと船酔い止めと……。あとそれから何を持っていけばよかったかしら」

「もうおばさんったら。そんな薬ならセーラは持ってるわ。恥ずかしいからやめてよ」

「でもセーラさんは私の薬をとても気に入ってくれているのよ。とてもよく効くお薬だって、言ってくれてるわ」

「……」

「あら、いけない。忘れるところだったわ」

「どうしたの、おばさん」

「心臓の薬を忘れるところだったのよ」

「おばさん、セーラは心臓なんか悪くないわ」

「違うわよ。花婿さんのお母さまの薬よ」

「あっ……」

「なんてことかしら。私としたことが薬をきらしてるわ。今から急いでつくらなきゃ」

「えええ、今から」

「庭から急いでクリスマスローズを抜いてきてちょうだい」

「今から煎ずるの?」

「早く、アーメンガード」

「は、はい、イライザおばさんっ」




イチゴ模様をあしらったパジャマに着替え、就寝の支度がすっかり整ったセーラは、ベッドに腰をかけて、ナイトテーブルの上のフォトスタンドを手に取った。スタンドの中では、セーラの父ラルフと赤ん坊を抱いたセーラの母が変わらぬ微笑を浮かべている。セーラはこれまでにない思いで父母を見つめ、二人へ語りかけた。

「ねえお父さま、お母さま。とうとう明日になりました。私は明日セントポール寺院へ参ります。大聖堂で、私は彼と永遠の愛を誓います。お二人に決して負けない幸せな家庭をつくっていきますから、どうか天国から私たちのこと見守ってくださいね」

 写真の中の母はいつもよりたくさん微笑んでくれた。その笑顔にセーラは小さくうなづいて答え、続いてラルフへ目をやった。
 ところが、このときラルフはセーラからわざと視線をはずして口を閉じてしまった。これにはセーラはちょっとだけ驚いた。けれども、彼女はすぐ冷静になって、ゆっくりとラルフへ話しかけるのだった。

「心配なの、お父さまは? でもお父さまが一番よく知っておいででしょう。彼がどんなにすてきな男性であるか。だからこそ、お父さまはミンチン先生の反対を押し切って彼をジャンプの御者にしてくださったのでしょう。彼なら私のことずっと守ってくれると思ったから、お父さまは『セーラのこと頼んだよ』って、ロンドン港でおっしゃったんでしょう」

 最愛の娘からこう言われてしまっては、さすがのラルフも機嫌を直さざるを得ない。写真の中の彼は、視線はまだ戻さないまでも、口元を動かしてセーラに同意したようだった。


「ミンチン先生が彼を追い払おうとしたとき、ジャンプが彼に頬ずりしたでしょう。私はそれを見たとき、彼との運命をうっすらと感じたのよ。でもそのときは私はまだ彼に対して特別な感情はなかったわ」

 セーラは続けた。セーラが彼をはっきりと意識したのは、二年前にジャンプが病に倒れたときであったと。
 彼は医者のいいつけどおりに薬と水を与え、馬小屋に何日も泊り込んで、その間一睡もしないで寝たきりのジャンプに付き添った。セーラ自身もベッキーと一緒に馬小屋から離れないでいたのだが、さすがに彼のように寝ずの看病まではできなかった。


そして何日目かの朝、彼が被せてくれたのであろう毛布の中で目を覚ましたセーラの瞳に飛び込んできたのは、立ち上がり何度も何度も彼に頬ずりしているジャンプと、そのジャンプに涙をぼろぼろ流しながら頬ずりを返す彼の姿だった。
 セーラは隣でまだ寝ていたベッキーを起こすのも忘れ、ジャンプへ走り寄った。ジャンプがいつもの元気なポニーに戻ったことを知ったセーラは、続いて彼の胸へ飛び込んだ。ジャンプが倒れた日から一度の入浴もしないでいた彼は、彼の汗の臭いと馬小屋の臭いが入り混じったおかげでずいぶんと異臭まみれだった。
 だけれどもセーラは、鼻を突くその臭いの持ち主になら、自分の身も心も預けて構わないと、そのとき初めて彼を一人の男性と意識したのだった。

「ね、お父さま。彼こそ私の王子さまになれる人だって思うでしょう。お母さまは私の気持ち、よくわかってくださるわよね、うふふ」

 写真の中のラルフは妻に視線を送り、それからセーラにまっすぐに向かった。


「ありがとう、お父さま。大好きです、お父さま。彼との結婚を許してくださって、ありがとうございます」

 ラルフはセーラを祝ってくれた。セーラは母に向かう。

「お母さま。どうしてセーラを残して逝ってしまわれたのって、お母さまを恨んだこともありました。でも今、私はそんなことを思ってしまった私がとても恥ずかしいです。お母さま、ごめんね。勝手なセーラを許してくださいね。今私はとっても幸せです」

 セーラは写真を胸に抱きしめた。これが両親に対する感謝のあらわれだった。

「お父さま、お母さま、私はお二人の娘で生まれてきたことを誇りに思っています。お母さま、セーラを生んでくれて……。セーラを生んでくれて、本当にありがとうございました」



 星がいつになく美しい夜だった。霧の多いロンドンではあるが、明日はきっと快晴にちがいない。

(了)


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