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世界名作劇場小説部屋
名も知らない白い花




少し動けば汗ばむような陽気になってきた季節。今日もセーラ・クルーはいつもと変わらず、ミンチン学院の夕食の買出しに出かけていた。
 ほぼ一日を薄暗い学院の中で過ごすベッキーには申し訳ないと思いつつも、セーラにとって外の空気を吸うことのできるこの買出しの機会は本当に貴重な時間であった。
 その日も朝からコックのジェームスに「食器の洗い方が乱暴だ」などと、半分八つ当たりとも思える叱り方をされてしまい、セーラはかなり参っていた。だからこそ、この買出しが少しでも気をまぎれさせることができるよう、彼女は願っていたのだ。

(今日はどんな人からどんな話が聞けるかな)

 たとえ自分自身に直接話しかけてくれる人がいなくとも、街行く人たちの陽気な笑い声を耳にするだけで、自分もその話の輪の中へ入って一緒になって笑ったような気分になるときもある。ほんの一時ではあったが、セーラにとって、なくてはならない時間だった。

(あら、あんなところに…)



市場のある向こう側へ渡ろうとして道に何気なく目をやると、舗装された道にできたほんの小さなヒビ割れた部分から、三本ばかり植物の茎がのびているのが見えた。
 どこまでも細く、そして実に弱々しい茎であったが、それはたくさんの葉をつけ、何にも増して、小さな白い花を咲かせていた。よほど注意しないと、そこに花が咲いていることなど、まったく誰も気づきそうにない。


(あっ…)

 セーラの心配したとおり、その小さな花は道行く人によって踏みつけられた。一度や二度ではない。

何度も何度もかわるがわる多くの人によって踏みつけられた。今回セーラがその花の存在に気づく以前から、数え切れないくらいさまざまな人たちによって踏みつけられたことはもちろんのことだろう。セーラは市場へ急がなければならないことをしばらくの間忘れて、その花の様子を見守った。
 花は踏みつけられるたびに茎が折れて地べたにはいつくばってしまう。けれども少し時間がたてば、もとあったような姿にもどり、太陽を見つめるかのように背筋をまっすぐのばした。まったくもって、その繰り返しだった。
 そうしたとき、背中を軽くポンと叩かれ、はっとして、セーラは現実の世界へ瞬間に戻されたのだった。

「お嬢さま、買出しですね」

 元気ないたずら坊主のような声で彼女を呼んだのは、ピーターだった。

「まあ、ピーター」

 セーラはいつもいつも彼には元気を分け与えてもらっているような気がしている。メイド頭のモーリーによって食事を抜きにされ、空腹で気落ちしたときであっても、彼のはずんだ声を聞くだけで、不思議に彼女は勇気付けられた。いつのまにかお腹がすいたことも忘れてしまうほどに。 今日も彼は変わらぬ笑顔でセーラを歓迎してくれている。


「お嬢さま、今日はとても新鮮な野菜が入ったんですよ。お嬢さまがもうすぐ来るころだろうと思って、特別に分けてもらってるんです。さあ、急ぎましょう」

ピーターはセーラが下げていた買い物籠を自分の手にとり、もう片方の手でセーラの手を握った。彼にとっても、セーラの存在は今や毎日の活気にはなくてはならないものへとなっていた。それゆえに、彼は自分がセーラに何をすることによって彼女の助けになるかを常に考えていた。セーラのために豊かな食材を用意しておくこともそのひとつだ。そして、両親を亡くし天涯孤独となってしまったセーラにとっても、彼の心づかいは身にしみた。
 ピーターへお礼の言葉を口にしようとしたとき、セーラは彼の足が花のすぐ近くに来たことを見た。

花がピーターに踏みつけられてしまう。そう思ったとき、セーラはピーターの胸を力いっぱい両手で押してしまった。
 予期せぬセーラの反応に、ピーターはバランスを崩してよろけた。今度は彼が危ないことを知ったセーラは彼の両脇に急いで手を回した。その反動でピーターも彼女の細い身体を両手で覆ってしまった。

彼の手からセーラの買い物籠がするりと抜け、地面に落ちる。



「あっ、ご、ごめんなさい、ピーター」

「えっ。い、いや。ど、どうしたんですか、お嬢さま」

「う、ううん。なんでもないの。びっくりさせてごめんね」

 肉体を使った毎日の労働のためにすっかりたくましく分厚くなったピーターの胸が、セーラの顔に触れている。これに気づいた彼は、あまりの恥ずかしさに彼女の背中まで回していた手をどけようとした。けれども、セーラの手には逆に力がこもり、彼から離れることを拒んだのだった。


「お、お嬢さま。は、恥ずかしいですよ」

 ピーターはそう言ったのだが、セーラはなぜか今は彼から離れたくなかった。
 ひどく懐かしかった。なぜかせつなかった。男性のこのたくましい胸。いったい誰だっただろう。いつだっただろう。
 セーラは思い出した。お父さまだ。いつでもどこでも、セーラを守ってくれた、優しく力強かったお父さま。辛いことや悲しいことがあっても、お父さまに抱っこしてもらうと、とてもとても安心できた。お父さまが亡くなり、もう二度とその安らかな気持ちになることはできないと思っていたセーラだったが、今ピーターの胸にその父親のぬくもりを思い出したのだった。

「ごめん、ピーター。ほんのちょっとの間でいいから、このままでいてちょうだい」

「お嬢さま、学院で何かあったんですか」

 セーラの碧い瞳から涙がこぼれだした。彼女の心の中は、お父さまのことで、はちきれんばかりにいっぱいとなっていた。
 セーラの涙を見て、ピーターは離してしまっていた両手を再びセーラの背へ回した。最初は周りにいた人たちの視線が気になったピーターも、その恥ずかしい気持ちはセーラの涙でどこかへ飛んでいってしまった。彼はしっかりとセーラを抱きしめた。

そしてしばらくして彼女の気が治まったのか、セーラの腕から力が抜けてゆくのを知り、ピーターもそれに合わせて手をほどいた。セーラの頬が赤く染まっている。


「わ、私。ごめんなさい。ピーター、ごめんね。びっくりしたでしょう」

「い、いいえ。でもちょっぴり心配しましたよ。だって急にお嬢さまが抱きついてきたんですから」

 抱きつこうとして抱きついたわけでは決してない。けれど、セーラはそのおかげで何だか今日もたくさんの元気を彼から分けてもらった気がした。

「さ、お嬢さま。八百屋のおかみさんがお嬢さまの来るのを待ってくれているんです。急ぎましょう」


ピーターは転がったままになっていたセーラの買い物籠を拾い上げ、彼女の手を再び握った。

「ありがとう、ピーター。本当にありがとう」

「やだなあ、お嬢さま。もう俺には遠慮はなしですよ」

 ピーターに連れられその場から離れるとき、セーラはふり返った。名も知らない白い花を。 ふり返った直後、花は再び通行人の男性に踏みつけられた。でもすぐに花はまっすぐに戻った。その三本の花は、常にお互いをささえ合いながら立っているようにセーラには見えた。


(何があってもがんばって生きていこう。私は決して一人じゃない。ひとりぼっちじゃないんだ)

 セーラはピーターに声をかけられ、彼に笑って返事を返した。セーラの表情は、これまでにないほど生き生きとしていた。いろいろな迷いから開放されたかのような、明るさが今の彼女には見えた。
 そしてセーラは自分からピーターの手を握り返した。力強く。どこまでも力強く。

(了)


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