●絵羽と絵羽





泳ぐ
  およぐ  
         およ





形の崩れた入道雲を見た。
 夏が終わったのだと霧散して青空に広がる白に見切りをつけて絵羽は船までの道を歩いていた。残暑はさほど厳しくはないものの歩けば汗が出る程に道のりは厳しい。
 手の甲で汗を拭い、長袖になったシャツを捲り「はぁ・・・・」と息をついた。
 疲れて出る溜息ばかりではなかった。
 
 憂鬱な心境も兼ねてだ。

『船着場についた。此処から私は海を渡り家に帰る』

 胸の奥が痛む、頭が、脳と脳との間がずれてブレが生じる。
ああ、
酸素、酸素だ、酸素。酸素を取り入れないと駄目だわ。
 絵羽は見えてきた海を見て深呼吸を繰り返す。
 酸素酸素酸素酸素酸素酸素酸素酸素酸素さんそ酸素さんそさんそさんさ・・・・・・・・・・・・
 めいいっぱい開いた目の奥の網膜がキュウと縮まり、瞳を大きく開けた。
「なんだぁ、のらねぇのか?姉貴」
 船着場で先に椅子に腰掛けていたのは愚弟だ。
 衣替えは終わったというのに今だ夏服を着ている。誰がいつまで夏服で冬を乗り越えれるのか競っているとだと聞いた。
 馬鹿だ。阿呆だ。
 しかし愚弟の事など絵羽は気にも止めない、目に入ったのは
「あらぁ・・・・乗らないの?? 絵羽・・・・?」
 後ろに乗っていた女だ。整った猫のような目は美人の類だが、年齢は僅かに皺が見えるので中年に差し掛かっている可能性もあった。
 本当の所は分からない。チャイナドレスに大胆なスリット。絵羽の嫌悪の何かに触れた。

「それ、誰よ」
「は?」
 愚弟は振り返った。
「・・・・・誰って船いっつも動かしてくれてる人だろう?」
「違うわよ、そこの女よ」
「・・・・・・・・・・・?」
 弟は訳が分からない、と言った顔をした。
 本来なら父の客人でもあるその人に無礼な口の聞き方などしない。ただ、この女は別だ。本能的に絵羽は悟っていた。

『 そして弟は私に振り返る 』

「誰も、」

 弟が言葉を出し終える前に絵羽は水面に写った船内部を見た。
 其処には弟の姿しかない。なので、
「いないぜ?」
 留弗夫が言葉を言い終える前に理解した。
 この女は私にしか見えないのであろう。
 絵羽は聡明だった。瞬時に常識ではありえない事も直ぐに頭が回転して受け入れた。
「そう、変な事いってごめんなさい」
 そう言い女から離れた座った。
 船が動き出した。女は頭にくるように含み笑いでしきりに絵羽を見て笑っている、ような、気がした。
 酸素不足で回らない脳内はしきりに睡魔を呼び、少しでも回復に努めようと欠伸により酸素を求めている。
 眠い、そう頭はいっぱいいっぱいの酸素を求めていた。
 船から下りると女も一緒に降りてきた。
 部屋に戻り鍵を閉めた。女は扉の前だ。
 溜息をつく。
 絵羽は人差し指で白いスカーフを外して制服を緩めスクール鞄を椅子の上に出しっぱなしにする。 
『酸素・・・・・・』
 ぜぇー・・・・と熱に浮かされたように頬を赤く染めて絵羽は苦しそうに熱っぽい息を吸い込んだ。喉でひりついたのか咳を繰り返し涙目になった。ベッドの上にそのまま倒れこむ。
「鞄はちゃんとしまわないと駄目でしょぉ?」
 と、後ろから気だるそうな女の声が聞こえた。
女がいつの間にか部屋の中に入ってきている。
「それに、そのまま寝たら制服が皺になるわよぉ?」
 絵羽は鼻についた目を細めてその女を睨むように顔をあげた。
「なぁに、その顔、」
 女女しい匂いが鼻についた。語尾を濁して延ばす頭の悪い物言いに、ねっとりとした視線。
 聡明な彼女はその女を侮蔑の表情で見た。

「なに、なんなの、あんた」
「わかるでしょう」
「だから、、なんで、そんなのなわけ??」

 絵羽は上半身を起こして女を見た。見慣れた顔だ。毎日鏡で見ている。
『年はとっても見間違えようもない。この女は、私だ』
もしくは魔女だ、森に住むベアトリーチェが私をからかっているのだ。絵羽は昔聞いた御伽噺を思い出しながら女を無視しながらベッドの上に寝転ぶまどろみに身を任せた。

『勉強がしたい、』
 でも酸素が足りないので頭が回らないのだ。

用はとても、息苦しい。肺と心臓がつまっている。だから動悸が激しい。胸が痛い。全ては酸素不足。
『酸素、酸素、酸素』
 
夏の最中に楼座が縁日で掬ってきた金魚の事を思い出した。
 酸素を求めて水面で口をパクパクと上下させている。
 楼座が可愛いなどとほざいていたが、絵羽には、グロテスク以外の何にも見えなかった。

 金魚鉢が丸いわけは、
 四角い水槽に金魚を入れないわけは
 様々な角度から、より金魚を綺麗に観察するためだと聞いた。
 真上からでも横からでも、

 様々な場所から金魚を観察して
 みなもを突く楼座を見て少し怖くなった。

だから、その後で、

『あの時の楼座の顔は愉快だったわ』

 観賞用の金魚、金魚鉢、
 そこで金魚が泳ぐ。
 ゆらゆらと泳ぐ、およぐ、およぐ、時々、酸素を求めて、口をぱく、ぱく、とさせながら。

『私はそれが嫌なの』
 絵羽は顔を下げる。
『金魚はいつの間にか私に摩り替わっていて、私はというと空気を求めて水面で必死に口をぱくぱくと動かしていた』











「姉さん、気分はどう?」
 うっすらと目を開けると絵羽の回りに使用人が数名と楼座がいた。
「気分って・・・なんのことよぉ」
 絵羽が聞くと頭が痛んだ。酸素不足だ、と息を吸い込む。
 しかし使用人から話を聞くとどうやら自分は高熱が出ていたらしい。
 留弗夫が体調が悪そうだったと医者に告げて使用人が鍵を開けて中を見ると私が倒れていたらしい。
 そして楼座が見舞いにきていると。

「優しい妹をもってよかったわねぇ、絵羽」
 そう女が壁に背をつけて笑った。
 煩い、黙れ、この愚妹は今こそ点数稼ぎをしようと私の顔色を伺いにきたに過ぎない。聡明な彼女はそう女を罵った。
 今日は学校を休めといわれた。

 ぜーぜー・・・と衣服を着た状態で水に溺れているみたな不快感に耐えながら一人で、正確には女と一緒に部屋の中に取り残された。

『勉強・・・が、したい』
 勉強、というよりも知識を持ちたい。知識があれば、頭があれば、リーダーシップがあれば、
 
『あの人の・・・・・ように』


 若き日の父が好きだった、
 好きという単語は身近すぎて可笑しい。
 若き日の父に憧れていた。
 聡明で、統括力に溢れ、力があって、
 ファザーコンプレックスだったのだ、私は。

 父に好かれたかった、憧れだった、
 それはいつしか父になりたいという願望になっていた。
 絵羽は立ち上がった。女が視線をあげた。その女の前で着替えさせられていたパジャマを脱ぎすて制服に身を包んでいく。
「あらあら、熱心ね?」
「ほっといてよ」
「どんなに、知識をつけても無駄よ」

 女の言葉で絵羽の動きはとまった 。
「一昨日、言われたばかりでしょう、右代宮を継ぐのは諦めろって」
 女が接近してきた。
 香水の匂いが鼻につく、
 成熟した女の胸が自分の僅かばかり膨らみはじめた胸に当たる、押しつぶされる。白い喉を噛まれて舌を這わされる。
 その後で白いスカーフを噛まれて引張られ、とかれる。
 目を丸くしていると女の垂れた髪が目に入り、痛い、と感じた時には やけに近くに女の顔があり、自分の顔と重なった。
 ベッドに押し倒される。縫い付けられる。
 
「・・・・っなに・・・」
「身体熱いわよ、大人しく寝てなさいよ、女の子なんだから、労わりなさい、身体を」
「女、扱いをするんじゃないわよ・・・!!」
衣服の下に手を潜らせて女は膨らみはじめている乳房を鷲づかみにした。撫ぜられ指と指との間、心臓の上の突起物を抓まれた・
「っひ・・・・ゃ・・・っ」
 身体を張り詰めさせて絵羽は顔を真赤にして女を見た。
「ほら、女の子」
 クスクスと喉で笑われる。
 羞恥と怒りと熱とで真赤になる。声を出して女を罵りたかったがどうにもこうにも酸素不足なのでそれも出来ない。
 再び胸を捕まれ左右にもまれる。
 びくりびくりと反応してしまい、口から出る女の声が嫌だった。
別に男になりたいというわけではない。女として綺麗な容姿だって気に入っているし、すべすべの肌は自慢したくなるほど誇りだ。

 ただ、この家を継ぎたいだけなのに。
 無償に悲しくなってきた、悲しくなってきたら目頭の熱さを止める事が出来なかった。
「やめてよ、・・・・・やめなさいよぉ・・おおお・・・・」
 絵羽は泣いていた。ぼろぼろと泣いていた。
 女が手を離した。絵羽は乱れた制服を治しもせずに背を女に向けて声を押し殺して泣き続けた。
「私を、右代宮絵羽を、これ以上侮辱しないで・・よ・・ぉ〜〜・・・」

 扉が開く音がした。女が出て行ったのが分った。
 可笑しな話だった。自分にしか見えないのに彼女は普通に扉の開け閉めが出来るのだ。




 ぷくぷく と、 浮かぶ夢を見る。

「ねぇ、楼座、金魚の正しい鑑賞方法知ってる??」
 笑顔で問い掛けると楼座は暫く考えた後で顔色を悪くした。
その後で金魚鉢を慌てて真上から覗きにいった。
 おなかを見せて水面でぷかぷかと泳いでいる金魚はよく鑑賞して普段見る事が出来ない隅々まで見渡せる事が出来た。

 楼座は、
  手を口に当てて声にならない絶叫をあげた。
 その声を聞きながら絵羽はくすくすと笑ていた。

 その金魚の姿が、今や自分と重なって見えるのだから、自業自得とでもいうわけなのだろうか。

 目が覚めると少しすっきりしていた。呼吸は思ったより簡単に出来た。
『目線を上げると女が少し反省をするような顔で私を見ていた』
「悪かったわよぉ」
「何が?」
「やりすぎた・・・・っているのぉ」
「貴女、右代宮絵羽なんでしょう?だったらあれぐらいの事、なんともないって顔してなさいよ」
「出来ないわよ、そんな事」
「出来るでしょう?!私なんでしょう?!」
「だって貴女みたいに頭がよくないもの、私は」
「頭がいいのよ、私は、外来語も、数学も科学も運動も、全部、全部、全部、勉強してるもの」
「忘れちゃったわ。そんな事」
「忘れたというの??!!怠ったというの???なぜ?なんでよ???あああ、貴女みたいなおとな。認めないわよ。私のふりをした誰かなんでしょう??!!認めないんだから、くだらないくだらないくだらない!!!」
 

 絵羽は一杯に息を吸い込んだ


『へそでも噛んで死んじゃえば?!』



 声が重なった。
 眼の前の女が可笑しそうに笑って声を被らせてきたのだ。
 ああ、この女はやっぱり私なのか。
 絵羽は酷く脱力したように、でも布団を握る手には力を込めて頭を下げた。

「なんで??・・・・・なんで、貴女はそんなのなわけ??なんで諦めたわけ???なんで、」
そう駄々をこねる絵羽の姿は女子高生の服装ではなく、いつの間にか杖を握っていたし、その格好は中世を舞台としたおとぎの国に出てくる魔女の格好そのものだった。
 歪んだ表情は人間とは掛け離れていたしそれが故に綺麗でもあった。
 
「それ以外に幸福をみつけたのよ」
「幸福???お父様みたいになる以外の何処に幸福が???諦める??この強い思いを、どうやってよ」

 女はそこで一瞬笑みを消して真顔になった。
 その後でふにゃりと表情を崩す。


「・・・・母親になったのよぉ」

 そう言って女は複雑そうに照れくさそうに、恥かしそうにそれでいて・・・・幸福そうに笑ったのだ。
 嬉しそうに嬉しそうに。



「結婚したの、とてもいい旦那さんよ。そして子供を生んだの、育てたの、その子供がね、お嫁さんを連れてきたのよ。反対したけどね、あの子を信じて許してあげたの。そして今年の春に孫が生まれるそうよ」

 絵羽は嬉しそうにくすくすと笑う。 
 絵羽は自分とは思えない程幸福そうに満ちたりた女の顔で微笑む彼女の皺を見ながら




「どう?」
 絵羽が首を傾けて微笑んだ。
「・・・素敵なおはなしね」




 絵羽は諦めたように、でも何処か納得したように彼女を見て笑った。








(もう、沖はみずに)








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